『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
11 日の沈まない国――フェリペ二世のスペイン――
4 無敵艦隊
ネーデルラントは、オランダ語を使用する北部とフラマン語・フランス語を使用する南部(ベルギー)の総称であった。
南部のフランドルは、油絵の技法を発展させたファン・アイク兄弟(兄一二七〇ごろ~一四二六、弟一三八〇ごろ~一四四一)や、農民生活に取材した風俗画で有名なブリューゲル(一五二〇ごろ~六九)を生んでいる。
また経済も栄え、北部は鰊(にしん)漁業、南部は毛織物工業で繁栄し、十五世紀後半から、アントワープがヨーロッパ商業の中心地になっていた。
そこではヨーロッパ各地の商品はむろんのこと、アジアや新大陸からの物資も取り引きされるようになった。
地理上の発見の結果のイベリア半島の繁栄は、アントワープのそれにつらなったのである。
この地は皇帝マクシミリアン一世(在位一四九三~一五一九)以来、ハブスブルク家の所領になっていたが、圧倒的な経済上の繁栄がその政治的従属性を忘れさせていた。
宗教改革が進展してくると、富裕な商人層にはカルバン主義がひろまってきたが、貴族たちはカトリックであり、スペインヘの反抗は表面化しなかった。
しかしイギリスのエリザベス一世(在位一五五八~一六〇三)が、明確な国教会主義をうちだすころには、ネーデルラントでは貴族にもプロテスタント化するものが続出し、宗教戦争期フランスのプロテスタント勢力ともつながりそうな状勢になった。
ネーデルラントは圧倒的な経済力をもっている。
ローマ教皇の最大のホープである王は、領土内の異端を許しておくわけにはいかなかった。
そこでフェリペ二世のネーデルラントに対する重税と圧政と宗教的弾圧が加わったのである。
スペインに対する反抗は一五五九年、北ネーデルラントのオラニエ公ウィレム(ウィリアム無言公、一五三三~八四)と、エグモント伯(一五二二~六八)の連合で開始された。
両者ともにカール五世の臣下で、フランス軍との戦いに功績があった。
エグモント伯はフェリペ二世とメアリー・チューターの結婚のとりもちをやった貴族であり、みずからカトリックでありながら、プロテスタントの住民に対するスペインの圧政と宗教裁判に腹を立てたのである。
しかしはじめ反抗は平和交渉の形をとっていた。そのあいたに敵意はたがいに強められた。
フェリペ二世はアルバ公(一五〇八~八三)をネーデルラントに送り、二万の軍隊で恐怖政治を行なった。
エグモント伯は死刑になった。その悲劇をゲーテやベートーベンが、のちにとりあげたことは有名だ。
一五六八年、独立戦争は本格的となり、スペイン側から「ゴイゼン(乞食)」と罵倒されたネーデルラント貴族は、海上にのがれてみずから「ゼー・ゴイゼン(海の乞食)」と名のり、スペイン船をおそった。
ネーデルラント側は苦戦をつづけ、アルクマール城の防禦(ぽうぎょ)戦(一五七三)の物語は、鎧(よろい)も冑(かぶと)もない漁夫の勇敢な戦いと戦果を伝えている。
アルバ公のスペイン軍の死者は千人をこえ、城内の死者わずか三十七人という数字はともかくとして、オランダ特有の提防をこわし、スペイン軍を水攻めにするという脅迫をアルバ公に対しておこない、小規模の洪水をおこして、スペイン軍の包囲を解かせたことが注目される。
戦いのあいだにネーデルラントの南部十州はスペインと妥協したが、一五七九年北部七州はユトレヒト同盟を組織して結束をかため、八一年オラニエ公ウィレムを初代総督に選出、事実上の独立をとげ、ネーデルラント連邦共和国、いわゆるオランダが成立した。
しかし戦いはつづき、一五八五年、スペイン軍はアントワープを占領した。
これによってネーデルラントは大打撃をうけたが、こういう経過はイギリスのスペインに対する敵意をますます強めた(オランダの独立が決定するのは、十七世紀にもちこされる)。
そしてイギリスに対するフェリペ二世の開戦の決意は、前章のメアリー・ステュアートの処刑が直接のきっかけになった。しかし、つぎの事情も重要である。
そもそもイギリスの海軍は、国教会成立以来、スペイン領とポルトガル領をさだめたトルデシリャス協定を無視しており、新大陸からの富をはこぶスペイン船に対し、「宝船」とばかり、海賊行為を公然とはたらいた。それは勇敢な行為とされ、とくにエリザベス一世の奨励するところであった。
しかしこれはスペインに対する挑戦であり、フェリペ二世としては、こういうイギリスを放置するわけにはいかなかったのである。
フェリペ二世は絶対不敗を目標に慎重に準備を進め、艦隊を「無敵艦隊(アルマダ・インペンシブレ)」と名づけていた。
それはイギリス上陸作戦を目標とし、海軍力はイギリス海軍を排除する程度に用意して、ネーデルラントにいたパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの指揮する精強な陸軍約三万を、いっきょに最短距離でイギリスに上陸させるという計画に合わせたものである。
一方、イギリス海軍は無敵艦隊の集結を妨害しようとこころみ、提督フランシス・ドレーク(一五四五~九六)は一五八七年四月、カディス港を襲って三十三隻を焼いた。
ドレークはいわばイギリス公認の海賊で、すでに掠奪的世界一周をおこない、スペイン船の脅威として神出鬼没の噂があった。
カディス港の大損害の教訓で、フェリペ二世は作戦を手直しして、ようやく一五八八年にはいって準備を軌道にのせた。
ところが二月に総指揮官のザンダ・クルス伯が急死したので、代わりに富豪で海軍経験のないメジナ・シドニア公(一五五〇~一六一五)を任命した。
一五八八年五月無敵艦隊はリスボンを出港した。
船百三十、船員八千、陸軍一万九千であったが、戦艦は六十八、大砲手百二十四で、うち半数以上はカディス港の教訓により、射程の長いものを用意していた。
しかし艦隊は嵐にあい、再集結に手間どって、ようやく七月二十九日イギリス沖に達した。
海戦は七月三十一日プリマス港沖から、八月四日のワイド島沖まで断続した。
メジナ・シドニア公はフェリペ二世から陸兵の乗船までは交戦するなという厳重な訓令をうけており、艦隊を集結して東進した。
一方、ハワードを司令官とし、ホーキンズ、ドレークなどの有名な海賊を参謀とするイギリス海軍は、船百九十八、うち戦艦六十二船員一万四千五百、大砲千九百七十二、その大部分が射程の長いものであった。
十六世紀の大砲の威力はけっして大きくない。
大砲で巨船を撃沈するなど思いもよらぬことで、海戦の勝敗は、敵艦に乗りうつって戦うことで決した。
そういう意味では、イギリス海軍は明らかに無敵艦隊にくらべ、数が多いというだけで、弱体であった。
しかしイギリス海軍は速い船足を利用して近づいては射撃し、すぐに遠ざかるという戦法をとり、無敵艦隊側に多くの命中弾を浴びせ、イギリス側は敵に多くの弾薬を浪費させて、ほとんど損害がなかった。
しかしじつはイギリス海軍の命中弾は効果があまりなく、無敵艦隊は外見上堂々たる航海をつづけた。
八月六日カレー沖に投錨(とうびょう)した無敵艦隊は、パルマ公の陸軍の準備がまったくできていないことを知り、さらに欠乏していた食糧・弾薬の補充にも失敗した。
七日、イギリス海軍は火災をおこした船を六隻、風上から無敵艦隊めがけて突入させた。
これがきっかけになって無敵艦隊の陣容はくずれ、八日グランプリーヌの海戦で無敵艦隊は約十二隻を失い、さらに暴風にあって支離滅裂になった。戦力を失って標流したもののうち、本国に帰着したものはわずか五十隻くらいであった。
無敵艦隊の潰滅(かいめつ)的損害に対して、イギリス艦隊は死者約百名を出したにすぎなかったが、勝利に気づかず警戒を続けるうちに三千人もの病死者を出した。
この無敵艦隊の敗北はスペインの制海権斜陽化の象徴、そしてスペインの実質的な没落の開始を意味した。
オランダの独立戦争も、これによって有利となった。
文化史的にはともかく、海外貿易におけるイギリス、オランダの台頭は十六世紀末から十七世紀はじめ、これら両国がそれぞれ「東インド会社」を創立して、アジア方面に進出したことによってもうかがわれよう。
「日の沈まない国」とは、しだいに過去の栄光を物語るにすぎなくなってゆく……。