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9-7-2 ピョートル・ミハイロフ氏の外遊

2024-07-04 15:55:46 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
7 西欧に窓を開くピョートル大帝の大改革
2 ピョートル・ミハイロフ氏の外遊

 ピョートル一世(在位一六八二~一七二五)は、異母兄フョードル三世(在位一六七六~八二)のあとをつぎ、十歳で即位した。 しかし異母姉ソフィア(一六五七~一七〇四)は軍事力をもって、弟イワン(五世)をピョートルの共同統治者とし、みずからは摂政の地位についた。
 一六八九年からピョートルの親政(十七歳)となるが、このころイギリスで名誉革命がおこっており、またピョートルは清朝の康煕帝(在位一六六一~一七二二)と同時代人である。
 東西で偶然にも時をおなじくして、英明な絶対君主があらわれたことになる。
 ピョートルの人となりは、いかにもロシア的であった。
 身の丈は二メートル以上もある大男、腕力は人一倍つよく、子供のときから本格的な「模擬戦争」が大好きであった。
 そのころの遊戯隊(幼い皇帝の「おあそび」係のようなもの)がのちの近衛軍となり、彼の幼な友だちから、のちの将軍や大臣があらわれる。
 またピョートルは大酒飲みで、ドンチャン騒ぎを好み、自分でハンマーや斧をふるい、鍛冶屋、船大工、旋盤工、外科医以下、十四の「手職」を身につけ、はしけ、椅子、食器、タバコ入れなどの自作品を数多くのこした。             

 彼は何もしないことが苦痛な性分で、ひまをみては手仕事をしていたわけだが、医者のまねごと、とくに歯科をやりたがり、側近は実験台にされはしないかと、いつもピクピクしていたという。
 一六八九年、十七歳のころ、ピョートルは大貴族ロプーヒンの娘エウドーキアと結婚、その翌年、皇子アレクセイが生まれたが、この夫婦生活は気が合わず悲劇におわった。
 ピョートルは「戦争ごっこ」に熱中し、ほとんど家庭によりつかず、遊戯隊宿舎に泊まったり、「外人部落」のある将軍宅で夜を明かしたり、ときにはヤウズ河畔の仮宮殿で、三日三晩飲みつづけて騒いだりした。
 成人したのちも、彼がとくに機嫌のよいのは、新しい船の進水祝いのときであって、この日には、首都の上流社会の男女が招待され、船のなかで「海上の酒もり」がおこなわれた。
 みんなが底ぬけに酔っぱらって陸軍大臣メンシコフはテーブルの下に死んだように横たわり、海軍大臣アプラクシン提督は、泣きだすという騒ぎになる……。
 船に関心をもつピョートルは、造船術にも興味をいだき、先進的なヨーロッパで、これを直接に学ぼうと思いたった。
 さらに新しい技術一般を視察し、外国の軍人、技師、職工たちを招きたく、また外交上の目的もあった。
 一六九七年三月から翌年八月まで、二十代なかばのピョートルは約二百五十名の大使節団を編成し、自分はピョートル・ミハイロフという変名のもとに随員として外遊した。
 そして当時の海軍国オランダ、イギリスでは、船大工として造船術を学んだ。
 そのほか一行は軍事工場、病院、美術館、大学、劇場、議会などを見学し、親しく西欧文明に接した。
 この「野蛮人たち」にかんするエピソードは数多い。
 ドイツにたちより、ピョートルがダンスに興じたとき、貴婦人たちがしめているコルセットを知らず、ドイツの女性の助骨はなんと堅いのかと驚いた、などというのは罪がないが、つぎのような件は名誉にかかわるものであろう。
 一行がイギリスで宿泊した宿では、床や壁にタンがはきかけられ、家具はこわされ、酒宴のあとのよごれが残り、壁の絵は射撃の的となり、庭の芝生は、鉄の長靴をはいた一連隊が行進したかのようにふみにじられているありさま、家主から多額の損害賠償を要求されたという。

 ところで、この西欧旅行は中断され、一六九八年八月、ピョートルは急に帰国したが、それは軍隊の一部に、異母姉ソフィア(すでに一六八九年、ピョートルに対する陰謀で、摂政を廃位されていた)をいただく陰謀がおこったからである。
 彼はこれをはげしく処罰し、みずから拷問室で反逆者の首を斬り落としさえした。
 ソフィアは修道院へ追いやられた。
 そしてピョートルはロシアの「大改革」に着手する。
 そのねらいは「西欧化」であり、まずバルト海にのぞむネバ川の三角州に、一七〇三年ごろから約十年をかけて、美しい西欧ふうの新首都が建設された。
 これが「ヨーロッパヘの窓」といわれたペテルブルグ(「ピョートルの街」の意、いまのレニングラード)であり、これよりロシア史の「ペテルブルグ時代」が開幕する。
 現在、エルミタージュ博物館で、革命まで皇居であった冬宮も、ピョートル時代に造営がはじまった。
 一七一二年、モスクワからペテルブルクヘ遷都された。
 ピョートルは新しい首都を飾るため金銭を惜しまず、すぐれた絵画や彫刻を買いもとめた。
 またフランスの建築家ル・ブロン(一六七九~一七一九)が招かれ、ベルサイユふうの離宮や庭園をつくり、ペテルブルグにゴブラン織り工業などを導入し、この地で世を終えたことは有名であろう。
 ただし、ネバ河口は不健康な沼沢地であったため、ペテルブルグ建設には多くの犠牲者がでたり、また、のち政治犯を収容したペトロパブロフスク要塞がつくられたような一面も、忘れられてはなるまい。 





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