『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
13 内陸の王者
1 星の王様
一方が相手を「混血児(あいのこ)」とけなせば、もう一方は相手を「匪賊(ひぞく)」とさげすむ。
そのどちらもチンギス汗の子孫なのであった。チャガタイ汗国の王者たちなのであった。
チャガタイ汗国は、チンギス汗の次子チャガタイを始祖として、中央アジアの大部分を支配してきた。
それが十四世紀になると、パミール高原をはさんで、東西に分裂する(一三二一)。
東チャガタイでは、自分たちこそモンゴルの後裔(こうえい)、モグール人だと主張し、イスラム文化の洗礼をうけた西の人たちを「混血児」とよんだ。
西チャガタイでは、我らこそチャガタイの正統だと袮して、遊牧民の伝統をたもつ東の人々を「匪賊」とよんだのであった。こうした東西の対立と抗争によって、やがて西チャガタイ汗因では、カン(汗)の位のゆくえもたどれなくなるほどに、国内が混乱してしまう。
汗国の実権は、トルコ化したモンゴル人の藩侯たちに、にぎられてしまう。
こうした豪族のことを、アミールとよんだ。時代は、まさにひとりの英雄の出現を待望していたといえよう。こうしたときに東チャガタイ汗国にあらわれたのが、トグルク・ティムールであった。
西チャガタイ汗国の紛乱につけこんで東西を統一しようとめざし、シル川をこえて西に攻めている。かくてトランスオキシアナ地方(シル川とアム川に挟まれた地域)を占領した(一三六〇)。
このトグルク・ティムールの引立てによってサマルカンドの南方、キシュ(いまのシャフリ・サブズ)とカルシーとの領主に任ぜられたのが、ティムールそのひとであった。ティムールは、一三三六年四月、キシュの郊外で生まれた。
その素性や生いたちについて、くわしいことはわからない。
チンギス汗の同族の子孫であるとも、名もない牧畜者の子にすぎないともいわれている。
つち、ティムールに謁見したエスパニア(スペイン)の使節クラビホは、彼のことを「わずか三~四人の騎士、すなわち従者を有するだけの」チャガタイ小人貴族の出身である、といっている。
これがほぼ正しいところであろう。
ティムールは、ヨーロッパではタメルランの名でとおっている。
これは「ティムール・ランク」すなわち「“ちんば”のティムール」というペルシア語のなまりである。
彼がビッコだったのは、若いころ受けた戦傷がもとであるといわれている。
ティムールは東チャガタイ汗国の軍隊を追い出し、アミール(藩候)たちを攻めほろぼして、ついに一三六九年、トランスオキシアナの実権をにぎり、将士から「サーヒブ・イ・キラーン」という尊号をうけた。
これは「星がまじわる際に生まれた王者」をしめすペルシア語である。
イラン地方では、モーゼ、キリスト、マホメットなどは、いずれも星がよじれるとき世にあらわれた、と信ぜられている。
すなわちティムールも「星の王様」と称せられることによって、これら聖者の仲間入りをさせられるに至ったわけである。※
ついで、トランスオキシアナの中心たるサマルカンドに都したティムールは、いまや、この地方の事実上の君主となる。
しかし形の上ではチャガタイ汗一族の子孫をカンとし、自分はアミール、またはベク(首領)という称号で満足していた。
ティムールがチンギス汗の血をひいているかどうかは、きわめて疑わしい。
しかし、その後継者をもって自認していたことはたしかであった。
その理想は、イスラム国家の建設をとおして、栄光にみちたモンゴル帝国を復興することであった。
その帝国を、チンギス汗の法令とイスラムの聖法とによって統治したのは、そのためである。
まずティムールは、東して東チャガタイ汗国をしたがえ、西して分裂の極にあったイル汗国を征服した。
ついでロシアに侵入してキプチャク汗国を撃破し、さらに西北インドにも遠征した。
それより、ふたたび西に転じて、アレッポ、ダマスクス、バグダードを占領する。
そのころ、小アジアから、バルカン半島にかけては、オスマン帝国の領域であった。ときのスルタン(君主)は、「稲妻王(いなずまおう)」とよばれたバヤジット一世である。
これとアンカラ(いまのトルコ共和国の首都)の北郊で戦って大破し、スルタンを捕虜にした(一四〇二)。
ティムールの軍は小アジアを席捲(せっけん)した。
※ ブログ管理者註 「星の子」は、むしろ、イエズスの死後、ユダヤで反乱を起こして、ディアスポラの原因を作った有名な偽預言者を思い出します。彼は「バル・コクバ」と呼ばれ、それは現地の言葉で、星の子という意味でした。
13 内陸の王者
1 星の王様
一方が相手を「混血児(あいのこ)」とけなせば、もう一方は相手を「匪賊(ひぞく)」とさげすむ。
そのどちらもチンギス汗の子孫なのであった。チャガタイ汗国の王者たちなのであった。
チャガタイ汗国は、チンギス汗の次子チャガタイを始祖として、中央アジアの大部分を支配してきた。
それが十四世紀になると、パミール高原をはさんで、東西に分裂する(一三二一)。
東チャガタイでは、自分たちこそモンゴルの後裔(こうえい)、モグール人だと主張し、イスラム文化の洗礼をうけた西の人たちを「混血児」とよんだ。
西チャガタイでは、我らこそチャガタイの正統だと袮して、遊牧民の伝統をたもつ東の人々を「匪賊」とよんだのであった。こうした東西の対立と抗争によって、やがて西チャガタイ汗因では、カン(汗)の位のゆくえもたどれなくなるほどに、国内が混乱してしまう。
汗国の実権は、トルコ化したモンゴル人の藩侯たちに、にぎられてしまう。
こうした豪族のことを、アミールとよんだ。時代は、まさにひとりの英雄の出現を待望していたといえよう。こうしたときに東チャガタイ汗国にあらわれたのが、トグルク・ティムールであった。
西チャガタイ汗国の紛乱につけこんで東西を統一しようとめざし、シル川をこえて西に攻めている。かくてトランスオキシアナ地方(シル川とアム川に挟まれた地域)を占領した(一三六〇)。
このトグルク・ティムールの引立てによってサマルカンドの南方、キシュ(いまのシャフリ・サブズ)とカルシーとの領主に任ぜられたのが、ティムールそのひとであった。ティムールは、一三三六年四月、キシュの郊外で生まれた。
その素性や生いたちについて、くわしいことはわからない。
チンギス汗の同族の子孫であるとも、名もない牧畜者の子にすぎないともいわれている。
つち、ティムールに謁見したエスパニア(スペイン)の使節クラビホは、彼のことを「わずか三~四人の騎士、すなわち従者を有するだけの」チャガタイ小人貴族の出身である、といっている。
これがほぼ正しいところであろう。
ティムールは、ヨーロッパではタメルランの名でとおっている。
これは「ティムール・ランク」すなわち「“ちんば”のティムール」というペルシア語のなまりである。
彼がビッコだったのは、若いころ受けた戦傷がもとであるといわれている。
ティムールは東チャガタイ汗国の軍隊を追い出し、アミール(藩候)たちを攻めほろぼして、ついに一三六九年、トランスオキシアナの実権をにぎり、将士から「サーヒブ・イ・キラーン」という尊号をうけた。
これは「星がまじわる際に生まれた王者」をしめすペルシア語である。
イラン地方では、モーゼ、キリスト、マホメットなどは、いずれも星がよじれるとき世にあらわれた、と信ぜられている。
すなわちティムールも「星の王様」と称せられることによって、これら聖者の仲間入りをさせられるに至ったわけである。※
ついで、トランスオキシアナの中心たるサマルカンドに都したティムールは、いまや、この地方の事実上の君主となる。
しかし形の上ではチャガタイ汗一族の子孫をカンとし、自分はアミール、またはベク(首領)という称号で満足していた。
ティムールがチンギス汗の血をひいているかどうかは、きわめて疑わしい。
しかし、その後継者をもって自認していたことはたしかであった。
その理想は、イスラム国家の建設をとおして、栄光にみちたモンゴル帝国を復興することであった。
その帝国を、チンギス汗の法令とイスラムの聖法とによって統治したのは、そのためである。
まずティムールは、東して東チャガタイ汗国をしたがえ、西して分裂の極にあったイル汗国を征服した。
ついでロシアに侵入してキプチャク汗国を撃破し、さらに西北インドにも遠征した。
それより、ふたたび西に転じて、アレッポ、ダマスクス、バグダードを占領する。
そのころ、小アジアから、バルカン半島にかけては、オスマン帝国の領域であった。ときのスルタン(君主)は、「稲妻王(いなずまおう)」とよばれたバヤジット一世である。
これとアンカラ(いまのトルコ共和国の首都)の北郊で戦って大破し、スルタンを捕虜にした(一四〇二)。
ティムールの軍は小アジアを席捲(せっけん)した。
※ ブログ管理者註 「星の子」は、むしろ、イエズスの死後、ユダヤで反乱を起こして、ディアスポラの原因を作った有名な偽預言者を思い出します。彼は「バル・コクバ」と呼ばれ、それは現地の言葉で、星の子という意味でした。