『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
3 イギリスのピューリタン革命
4 革命のプログラム
ネーズビーの決戦によって革命の第一幕がおわった。
これとともに、まえから問題をはらんでいた議会派内部の対立が表面化してきた。
エセックス伯やマンチェスター伯の指導する長老派とクロンウェルのひきいる独立派との対立である。
この両党派の名前はエリザベス朝のピューリタンの宗派に由来するが、政治上の長老派、独立派は、宗教上のそれとぴったり一致するものではない。
長老派は革命がこれ以上すすんで、社会秩序が崩壊することをおそれ、長老派の全国的な教会組織による上からの統制を維持して、革命を適当なところで停止させようとした。
これに対し独立派は、長老派と分離派との中道を歩むとはいうものの、長老派とはまったく異なった性格をもち、革命をより以上おしすすめる立場をとっていた。
長老派は、クロンウェルの活躍によって軍隊の指揮権を独立派に奪われたとはいえ、議会では多数派である。
そしてロンドンの貿易商人や、これと関係のふかい貴族やジェントルマンを地盤としていた。
一方、独立派は軍隊に勢力を有し、長老派より下の階層の支持をうけた。
両派の政治改革のプログラムには、若干の相違がみとめられるが、王の存在が自明なこととして前提され、議会の権限が主張され、立憲君主制をめざしている点は共通していた。
これら長老派、独立派に対する第三の勢力が水平派であって、小親方や職人などの小市民を基盤とした。
この水平派のもっとも傑出した指導者がジョン・リルバーン(一六一五~五七)である。
彼はロンドンの毛織物商の徒弟で、投獄され、長期議会がひらかれると釈放されて議会軍に加わったが、クロンウェルと対立して軍をしりぞき、ロンドンの職人や徒弟のあいだで政治的活動をはじめた。軍隊の中では兵士の間に水平派の支持者が急速にふえ、彼らは軍隊の民主化に乗りだし、一六四七年五月、各連隊から、二名のアジテーターとよばれる代表を選出した。
そしてこれまでの階級制の軍会議にかわって、将校以外に兵士代表をふくむ「一般軍会議」が組織されたのである。兵士たちは一六四七年十月、「正確に述べられた軍の主張」によって、人民主権の原理をうたった。
「すべての権力は、本来、本質的にこの国の人民の全体のうちにあり、彼らの代表者による自由な選択または同意こそ、すべての正しい統治の唯一の源泉または基礎である。」
そして同じ十月、水平派や兵士たちは、彼らのプログラムをまとめ、「人民協約」として一般軍会議に提出した。
「人民協約」は共和制の立場をとり、議会に対する人民の優越をうたい、議会といえども侵すことのできない基本的人権として「生得権」をつよく主張している。