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『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
10 唐朝の建国
1 李淵の挙兵
4 名君と名后
貞観十年(六三六)、太宗が侍臣に問うた。
「帝王の業は、創業と守成とどちらがむずかしいか。」
房玄齢(ぼうげんれい)が答えて、「創業がむずかしい」といい、魏徴(ぎちょう)は「守成がむずかしい」と答えた。
そこで太宗は言った。
「玄齢は、むかし自分にしたがって天下をさだめ、艱難(かんなん)をなめ、万死に一生をえ、創業のむずかしさを知っている。
魏徴は自分と天下を平和にするにあたって、おごりなまける心がおこると、かならず危くなることを考えており、守成のむずかしいことを知っている。
いまや創業の困難のときは過ぎた。守成のむずかしさは、どうしても皆とつつしんでいかねばならない。」
ここにあらわれた房玄齢は、杜如晦(とじょかい)とともに「房杜」といわれて、太宗を補佐した名宰相である。
魏徴はよく諌言(かんげん)をし、諌臣の魏徴として名だかい。
はじめは李密につかえていて、李密とともに唐朝にくだり、高祖の世には太子建成の補導の任にあたった。
玄武門の変ののち、太宗は魏徴に「なんじは、どうしてわが兄弟を離間したのか」と詰問(きつもん)すると、
「太子(建成)が早く私のことばにしたがっていたら、このような目にはあわなかったでありましょう」
と答えた。太宗はその度胸に感心し、その人物をみとめて登用したという。
ここに太宗の非凡なところが示されている。魏徴は貞観十七年(六四三)に死去した。
房玄齢と杜如晦は、武徳のころから世民に仕え、玄武門の変のときには、ほかに左遷されていたのを、道士(道教の坊さん)の服をきて潜入してきた。
房玄齢はよく大事を決断し、杜如晦はうまい策略をたて、名コンビで太宗を補佐した。
さきにあげたような太宗と臣下との問答を収録したのが『貞観(じょうがん)政要(せいよう)』である。
この本は、平安時代にわが国につたわり、鎌倉時代をへて江戸時代にいたるまで、たびたび翻訳出版された。
政治学の書物、あるいは帝王学の教科書として、ひろく読まれたのである。
ところで太宗の治世は中国史のうえでも、まれに見る善政のつづいたときといわれる。
よって「貞観(じょうがん)の治(ち)」とよばれた。
たとえば貞観四年(六三〇)は、たいへんな豊作であった。
穀物のねだんもさがり、それまで食いつめて逃亡していたものが、みな郷里にかえってきた。
また平和がつづいて盗賊がすくなくなり、戸に鍵をかけず、この年の死刑囚はわずか二十九人であった。
旅行する者も食糧をたずさえず、途中でそれを調達した。
また牛馬などの家畜もあふれ、そのうえ突厥(とっけつ)など異民族で唐の州県に編入されたものが、百二十万人もあったという。
たしかに、この時代はようやく群雄も平定され、人民は久しぶりに太平を楽しんだことであろう。
しかし戸口の統計などをみると、ほかの時代にくらべて、かならずしも多くはなっていない。
天下が統一されて、まもない時期なのである。伝えられてきたように、はたして太平そのものの時代であったのか、疑念もおこってこよう。
それでも、上に太宗という名君があり、下にあまたの名臣がいたことは事実であった。
太宗の皇后を、文徳皇后という。長孫氏の出身であった。
長孫氏は鮮卑(せんぴ)の拓跋(たくばつ)部に属し、北魏の皇族の長であるから長孫氏と称したという。
皇后の兄が長孫無忌(むき)で、太宗のおさな友だちであった。
玄武門の変でも、太宗に随行している(九人のうちのひとり)。
即位ののちは外戚として重きをなし、さらに太宗の死後も、元勲として最高の権勢をほこった。
皇后は十三歳のとき、十六歳の太宗に嫁した。小さいときから読書をこのみ、いつも礼節にかなった動作をした。
太宗が兄の太子との関係がまずくなってからも、よく高祖につかえ、また高祖の多くの妃たちにも恭順で、太宗の気のつかないところをおぎなった。
玄武門の変のときは、将士を宮中に入れて甲(よろい)をさずけ、かいがいしく働いた。
皇后となってからも非のうちどころがなく、さすがの太宗も一目(いちもく)おいていた。
あるとき太宗は皇后と臣下の賞罰のことを論じようとすると、皇后は言った。
「牝鶏(めんどり)が晨(あさ)を告げるのは、家のおわりを示すものです。
私は婦人の身、政事に干与はいたしませぬ。」
いくら太宗が問うても、ついに答えない。皇后は、相談にあずかってよいことと、そうでないこととを、きちんとわきまえていた。
それとともに、この話の裏には、なんでも太宗が皇后に相談をもちかけていたので、それをたしなめた、ということがあるのではなかろうか。
史上きっての名君といわれる太宗の善政も、じつは皇后のアドバイスが多かったと考えると愉快である。
また太宗は、皇后の兄の無忌を宰相にしようとした。しかし皇后は、兄妹が朝廷の枢要な地位にあることを、どうしても認めなかった。
しかし天は二物をあたえず。このような名后も三十四歳のわかさで病におかされた。
病のあつくなったとき、太子の承乾(しょうけん)が皇后に申しあげた。
「医薬はあらゆる手をつくしましたが、病は快方にむかいませぬ。
どうか囚人をゆるし、またとくに出家をゆるして、福助をお求め下さいませ。」
すると皇后は言った。
「死生は天命であり、人力の加うるところではない。
もし福をおさめて命をのばすことができるなら、私はもともと悪事をなしてはいない。
もし善事をおこなって、ききめがないのなら、福など求めはしない。
赦(しゃ)は国の大事、仏法は外国の教え、みな天子のかるがるしくなすべきものではない。
わが一婦人のことで、天下の法はみだせない。」
これを聞くもの、みな感涙にむせんだ。
また危篤のとき、名臣の房玄齢がたまたま勘気をこうむって家にかえっていた。
皇后は「玄齢こそ、たのむにたる人物、これをすててはなりませぬ」といい、また
「私の里方(さとかた)の者を、けっして権要の地位におつけ下さいますな。
また、派手(はで)なお葬式は天下のもの笑いですよ」と遺言してなくなった。三十六歳であった。
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10 唐朝の建国
1 李淵の挙兵
4 名君と名后
貞観十年(六三六)、太宗が侍臣に問うた。
「帝王の業は、創業と守成とどちらがむずかしいか。」
房玄齢(ぼうげんれい)が答えて、「創業がむずかしい」といい、魏徴(ぎちょう)は「守成がむずかしい」と答えた。
そこで太宗は言った。
「玄齢は、むかし自分にしたがって天下をさだめ、艱難(かんなん)をなめ、万死に一生をえ、創業のむずかしさを知っている。
魏徴は自分と天下を平和にするにあたって、おごりなまける心がおこると、かならず危くなることを考えており、守成のむずかしいことを知っている。
いまや創業の困難のときは過ぎた。守成のむずかしさは、どうしても皆とつつしんでいかねばならない。」
ここにあらわれた房玄齢は、杜如晦(とじょかい)とともに「房杜」といわれて、太宗を補佐した名宰相である。
魏徴はよく諌言(かんげん)をし、諌臣の魏徴として名だかい。
はじめは李密につかえていて、李密とともに唐朝にくだり、高祖の世には太子建成の補導の任にあたった。
玄武門の変ののち、太宗は魏徴に「なんじは、どうしてわが兄弟を離間したのか」と詰問(きつもん)すると、
「太子(建成)が早く私のことばにしたがっていたら、このような目にはあわなかったでありましょう」
と答えた。太宗はその度胸に感心し、その人物をみとめて登用したという。
ここに太宗の非凡なところが示されている。魏徴は貞観十七年(六四三)に死去した。
房玄齢と杜如晦は、武徳のころから世民に仕え、玄武門の変のときには、ほかに左遷されていたのを、道士(道教の坊さん)の服をきて潜入してきた。
房玄齢はよく大事を決断し、杜如晦はうまい策略をたて、名コンビで太宗を補佐した。
さきにあげたような太宗と臣下との問答を収録したのが『貞観(じょうがん)政要(せいよう)』である。
この本は、平安時代にわが国につたわり、鎌倉時代をへて江戸時代にいたるまで、たびたび翻訳出版された。
政治学の書物、あるいは帝王学の教科書として、ひろく読まれたのである。
ところで太宗の治世は中国史のうえでも、まれに見る善政のつづいたときといわれる。
よって「貞観(じょうがん)の治(ち)」とよばれた。
たとえば貞観四年(六三〇)は、たいへんな豊作であった。
穀物のねだんもさがり、それまで食いつめて逃亡していたものが、みな郷里にかえってきた。
また平和がつづいて盗賊がすくなくなり、戸に鍵をかけず、この年の死刑囚はわずか二十九人であった。
旅行する者も食糧をたずさえず、途中でそれを調達した。
また牛馬などの家畜もあふれ、そのうえ突厥(とっけつ)など異民族で唐の州県に編入されたものが、百二十万人もあったという。
たしかに、この時代はようやく群雄も平定され、人民は久しぶりに太平を楽しんだことであろう。
しかし戸口の統計などをみると、ほかの時代にくらべて、かならずしも多くはなっていない。
天下が統一されて、まもない時期なのである。伝えられてきたように、はたして太平そのものの時代であったのか、疑念もおこってこよう。
それでも、上に太宗という名君があり、下にあまたの名臣がいたことは事実であった。
太宗の皇后を、文徳皇后という。長孫氏の出身であった。
長孫氏は鮮卑(せんぴ)の拓跋(たくばつ)部に属し、北魏の皇族の長であるから長孫氏と称したという。
皇后の兄が長孫無忌(むき)で、太宗のおさな友だちであった。
玄武門の変でも、太宗に随行している(九人のうちのひとり)。
即位ののちは外戚として重きをなし、さらに太宗の死後も、元勲として最高の権勢をほこった。
皇后は十三歳のとき、十六歳の太宗に嫁した。小さいときから読書をこのみ、いつも礼節にかなった動作をした。
太宗が兄の太子との関係がまずくなってからも、よく高祖につかえ、また高祖の多くの妃たちにも恭順で、太宗の気のつかないところをおぎなった。
玄武門の変のときは、将士を宮中に入れて甲(よろい)をさずけ、かいがいしく働いた。
皇后となってからも非のうちどころがなく、さすがの太宗も一目(いちもく)おいていた。
あるとき太宗は皇后と臣下の賞罰のことを論じようとすると、皇后は言った。
「牝鶏(めんどり)が晨(あさ)を告げるのは、家のおわりを示すものです。
私は婦人の身、政事に干与はいたしませぬ。」
いくら太宗が問うても、ついに答えない。皇后は、相談にあずかってよいことと、そうでないこととを、きちんとわきまえていた。
それとともに、この話の裏には、なんでも太宗が皇后に相談をもちかけていたので、それをたしなめた、ということがあるのではなかろうか。
史上きっての名君といわれる太宗の善政も、じつは皇后のアドバイスが多かったと考えると愉快である。
また太宗は、皇后の兄の無忌を宰相にしようとした。しかし皇后は、兄妹が朝廷の枢要な地位にあることを、どうしても認めなかった。
しかし天は二物をあたえず。このような名后も三十四歳のわかさで病におかされた。
病のあつくなったとき、太子の承乾(しょうけん)が皇后に申しあげた。
「医薬はあらゆる手をつくしましたが、病は快方にむかいませぬ。
どうか囚人をゆるし、またとくに出家をゆるして、福助をお求め下さいませ。」
すると皇后は言った。
「死生は天命であり、人力の加うるところではない。
もし福をおさめて命をのばすことができるなら、私はもともと悪事をなしてはいない。
もし善事をおこなって、ききめがないのなら、福など求めはしない。
赦(しゃ)は国の大事、仏法は外国の教え、みな天子のかるがるしくなすべきものではない。
わが一婦人のことで、天下の法はみだせない。」
これを聞くもの、みな感涙にむせんだ。
また危篤のとき、名臣の房玄齢がたまたま勘気をこうむって家にかえっていた。
皇后は「玄齢こそ、たのむにたる人物、これをすててはなりませぬ」といい、また
「私の里方(さとかた)の者を、けっして権要の地位におつけ下さいますな。
また、派手(はで)なお葬式は天下のもの笑いですよ」と遺言してなくなった。三十六歳であった。
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