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3-17-6 馬王堆の主

2019-05-30 17:57:57 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

17 驚異の漢墓

6 馬王堆の主

 この墓が「軑候(だいこう)」家のものとすれば、墓の主人公は軑候夫人ということになるであろう。
 それでは軑候とは、どういう家だったのか。
 長沙には王家があった。漢の高祖劉邦は、項羽との戦いに功のあった呉芮(ごぜい)を、長沙王に封じたのであった(前二〇二)。
 呉氏の長沙王は五代つづき、景帝の代になって皇族の劉氏が長沙王となる(前一五五)。
 さて長沙国の宰相であった黎利倉(あるいは朱蒼)は、恵帝の二年(前一九三)軑侯に封ぜられ、いまの湖北省軑県において七百戸を領した。
 それより黎氏の軑侯は八十余年つづいたが、武帝の元封元年(前一一〇)、四代目の黎鉄は罪をえて廃位された。
 黎利倉は軑候となったものの、長沙国の宰相でもあったから、利倉も、その家族も長沙に住んだ。
 利倉の子孫は必ずしも長沙の宰相とはなっていないが、やはり長沙に住んだものであろう。
 ただし四代目の黎鉄は軑侯としての身分のまま、東海太守に任ぜられた。
 これは地方官であるから、任地へおもむかねばならぬ。黎氏は長沙を去ったに違いない。
 そうすると軑候家として墓を長沙につくりうるのは、三代目(前一四一まで)より以前ということになろう。
 すなわち馬王堆の漢墓の主は、初代の利倉夫人という可能性が強いのである。
 ところで発掘が終わってから後、中国の科学者たちは、墓の主たる女性の屍体について、綿密な調査をおこなった。
 外形をしらべ、さらに解剖によって内臓をしらべた。
 体内の器官は、細部にいたるまで完全に保存されていた。そして死因まで推定された。
 食道から胃腸にかけては、百三十八粒のウリの種が発見された。
 農学者は、これをマクワウリの種と鑑定した。
 女性はマクワウリを食べてから、まもなく死んだのである。
 とすれば死亡の時期は、ウリの熟するころであろう。
 血液型もA型とわかった。X線透視の結果、椎間軟骨(ついかんなんこつ)ヘルニアをわずらっていたことが判明した。
 また左の肺の上部には、結核の病巣があった。
 そのほか冠状動脈に硬化の病変があり、ひどい胆石もわずらっていた。
 これらの所見から、死因について下された結論は、つぎの通りである。
 女性の年齢は五十歳前後、胆石による痛みがはげしく、気分をやわらげるためにマクワウリを食べた。
 その直後、心臓に発作をおこして急死した。
 屍体は地下ふかく埋められ、防湿と防腐の処置がほどこされて、そのまま二千年あまりも完全に保存されたのであった。
 かずかずの驚異をもたらした軑侯夫人の墓は「馬王堆一号漢墓」と名づけられた。
 すぐ近くには同じ規模の塚がある。軑候黎利倉その人、あるいは第二代軑候の蟇であろうか。
 これら二号漢墓、三号漢墓が発掘された暁には、また新しい史実が明るみに出ることであろう。
 中国の古代史は、こうして次々に書き改められ、そして偉大なる中国の民族のあゆみの跡は、次々に新しい知見を加えようとしている。


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