『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
2 動乱の地中海
2 衰運の老帝国
ユスティニアヌス皇帝は栄光に輝いた。
イタリア半島、サルデーニャ、シチリア諸島、北アフリカ沿岸から西ゴート領のイベリア半島(スペイン)、地中海岸など、西部地中海の要所が東ローマ帝国領として確定し、地中海は、ふたたび「ローマの湖」となった。
だがその栄光は、つかのまの輝きであった。
ユスティニアヌス没後三年、五六八年に、パンノニアにいたランゴバルド族(最初の地図参照)が北イタリアに侵入した。
うちつづいた戦乱と、戦後ユスティニアヌスが戦費回収のために課した巨額の税金とが、イタリアのローマ人をすっかり疲弊させていたときだけに、侵入するゲルマン人に対するローマ人の抵抗はもろかった。
ランゴバルド族は、族長アルボインにひきいられて、まずアペニン山脈以北、パビアを中心とする地域に濃く定着した。 彼らは、それ以前にイタリアに入った東ゴートなどのゲルマン諸族とはちがっていた。
彼らは、ローマ人との共存を望まず、支配者としてローマ人にのぞんだ。
彼らは、ローマ人地主の士地を自由に収奪し、ローマ人を隷農として使役した。
彼らの王は、東ローマ皇帝と対等の存在であり、もはやその代官ではなかった。
彼らの法律は、ゲルマン民族の法慣習を強く表現するものであった。
アルボインは、まもなく王妃の手にかかって倒れた。
そののちの十年ほどの王位空白の期間に、ランゴパルド候の各氏族は、それぞれの首長にひきいられて、半島各地を占拠した。
なかでも、南イタリアのスポレト、ぺルベントを支とした二氏族は、ミラノ北方のモンツァを首卸とする王家の系譜が北イタリアに確立したのち、なかば自立的な候領を形成した。
今日においてもイタリアの大きな政治問題となっている南北イタリアの対立は、その根源をじつに、ここに発しているのである。
東ローマ帝国は、なおイタリア総督府をラベンナにおき、ランゴバルド王国と協定をむすんで、ラベンナ、ベネチア、ローマを南北につなぐ帯状の地帯と、長靴の爪先と踵(かかと)の部分、つまりカラブリアとアプリア、ざらにナポリ、ジェノバの両都市に対する宗主権を確保したが、事実上、イタリア半島を失った。
実際、東ローマ帝国としては、イタリア半島どころではなかった。
帝国の心臓部であるシリア、エジプトが、ササン朝ペルシァの脅威にさらされていたのである。
そのうえ、北方のアバール族、スラブ諸族の動きがはげしかった。
そして、ペルシァの脅威をようやくにして退けてみれば、さらに恐ろしい敵、若々しいイスラム教徒が東部地中海に征服の手をひろげてきた。
老大国東ローマは、ユスティニアヌスの夢をふたたび追うよりも、まず帝国の保全に力をつくさなければならなかった。
ユスティニアヌス没後、帝権はいちじるしく衰弱し、ついに、七世紀初頭、反乱を起こした軍隊に擁立された帝位潜称者フォーカスが出現した。
ランゴバルド族と協定をむすび、彼らのイタリア支配を認めるにいたったのは、この皇帝の代のことである。
アフリカ総督の息子ヘラクリウスは、ここにクーデターを起こし、六一〇年、帝権を掌握した。これがヘラクリウス朝(七一七年まで)の統治のはじまりである。
ヘラクリウスの統治(六一〇~四一)の初年、北方のアバール族は、「アナスタシウスの壁」を越え、首都にせまっていた。
ペルシァ軍は、ダマスクスとイェルサレムを占拠し、エジプトに遠征軍を送り、アレクサンドリアを攻囲していた。
六一七年、小アジア半島に侵入したペルシァ軍は、コンスタンティノープルの対岸に陣をかまえ、アバール族と呼応して、東ローマ帝国の息の根をとめようとする勢いだった。ヘラクリウスはアバール族を買収し、全力を対ペルシァ戦にそそいだ。
守勢をすててあえて攻勢にでた東ローマ軍は、海路、小アジア半島のつけ根、イプソスにまわり、六二二年、ペルシァ軍を破って、アルメニア地方に進出することに成功した。
そこを基地としたヘラクリウスは、六二七年、ニネベにペルシァ王コスロー二世と戦い、これを破り、その勢いをかって、翌年、ペルシァの首都クテシフォン城門にせまり、ペルシァに和平を強要した。
ここにペルシァの脅威は去り、オリエント(東方)の領土は、ともかくも保全された。
だが、イッソスの勝利の年、六二二年こそは、じつに、マホメットの聖遷(ヘジラ)の年であった。
ヘラクリウスの輝かしい勝利は、おそらく彼が夢想さえしなかったにちがいないアラブ人の活動によって、まもなく、なんの意味ももたなくなってしまったのである。
イスラムの予言者マホメットが、その教義の峻厳さにより、メッカでの宣教にはげしい迫害をうけたため、信徒とともにメディナへ逃れた聖遷(ヘジラ)の年(六二二年)から、マホメッ卜の死をむかえた六三二年までの十年間に、アラブ半島の全スラブ民族は、イスラムの旗のもとに統一された。
イスラムとは「神への服従」を意味し、信徒には「聖戦(ジハルド)」の義務が課せられる。
初代カリフ(マホメットの後継者)アブー・バクルの代、使命感にもえたアラブ軍団のエネルギーは、奔流のような勢いで、半島の外へ流れ出た。
「イスラムの剣」とあだなされた名将ワリードのひきいるイスラム軍団は、六三四年、死海南岸に東ローマ帝国のシリア方面軍を破り、ダマスクスを占領した。
意外な情勢の展開におどろいたヘラクリウス帝は、いそいで大軍をシリアに南下させた。
両軍は、六三六年、ヨルダン川の支流ヤルムーク川のほとりで会戦した。
熱風の吹きあれる盛夏八月のことであった。
東ローマ軍は壊滅した。ダマスクスに半月旗がひるがえり、シリアはアラブ領と確定した。
これが東ローマ帝国とペルシァ帝国にとっては悲劇の、イスラム帝国にとっては勝利の序奏であった。
六四一年のネハーベントの戦いに死力をつくしたのち、ササン朝ペルシァ帝国は倒れ、ペルシァ領メソポタミアは、イスラム帝国に併合された。
これと併行して、西方エジプトに向かったアラブ勢は、六四二年、アレクサンドリアを占拠し、東ローマ帝国は、エジプトを失った。
さらに西に進んでチュランアを、海上に出てキプロスを攻略した半月旗軍を押しとどめようと、六五五年、東ローマ帝国艦隊は、小アジア半島のキリキアの沖あいにアラブ艦隊と対決したが、あえなく壊滅した。
こうして、東ローマ帝国は、七世紀の中葉に、オリエント、および東部地中海に対する統制権をまったく失った。
七世紀の後半には、東ローマ帝国はペルシァ帝国のあとを追うかのようにみえた。
六六一年に成立したサラセン帝国ウマイヤ朝は、首都をダマスクスにおき、陸路を小アジア半島の内陸経由で、海路を小アジア半島沿岸ぞいに、東ローマ帝国攻勢の歩を進めた。
六七三年から八年にかけて、コンスタンティノープルは、海陸両面から攻囲された。
だが、このころすでに、ヘラクリウス帝によってその基礎のおかれた東ローマ帝国の国制改革は、ようやくその実をむすびつつあった。
これは、簡単にいえば、都市経済の主要な拠点てあったシリア、エジプトを失った事態に対応して、小アジア、バルカン半島の自作農を育成する政策であった。
この自作農は農兵としての性格をもち、各軍管区の長官に統率される。
生活の基盤をしっかりとあたえられ、訓練のゆきとといた兵士たちの軍隊がここに創出され、これがアラブ勢の攻勢をよく排除しえたのであった。
東ローマの海軍は、アラブ艦隊がボスポラス海峡にはいるのをゆるさず、「ギリシア火」と呼ばれた一種の火薬(硫黄を主成分にした発火性物質)を使って、アラブ勢をさんざんに苦しめた。
小アジア半島のアラブ勢は、だいたい、タルソスから黒海の東端にいたる線までに押しかえされた。
七一七年、コンスタンティノープルはふたたびアラブ勢に攻囲された。
だが、東ローマは、この年帝位についたイサウリア朝のレオ三世の指導のもとに、一年間の攻防の末、首都の防衛に成功した。
東ローマ帝国は滅亡をまぬがれ、東部地中海の制海権も奪回することができた。
2 動乱の地中海
2 衰運の老帝国
ユスティニアヌス皇帝は栄光に輝いた。
イタリア半島、サルデーニャ、シチリア諸島、北アフリカ沿岸から西ゴート領のイベリア半島(スペイン)、地中海岸など、西部地中海の要所が東ローマ帝国領として確定し、地中海は、ふたたび「ローマの湖」となった。
だがその栄光は、つかのまの輝きであった。
ユスティニアヌス没後三年、五六八年に、パンノニアにいたランゴバルド族(最初の地図参照)が北イタリアに侵入した。
うちつづいた戦乱と、戦後ユスティニアヌスが戦費回収のために課した巨額の税金とが、イタリアのローマ人をすっかり疲弊させていたときだけに、侵入するゲルマン人に対するローマ人の抵抗はもろかった。
ランゴバルド族は、族長アルボインにひきいられて、まずアペニン山脈以北、パビアを中心とする地域に濃く定着した。 彼らは、それ以前にイタリアに入った東ゴートなどのゲルマン諸族とはちがっていた。
彼らは、ローマ人との共存を望まず、支配者としてローマ人にのぞんだ。
彼らは、ローマ人地主の士地を自由に収奪し、ローマ人を隷農として使役した。
彼らの王は、東ローマ皇帝と対等の存在であり、もはやその代官ではなかった。
彼らの法律は、ゲルマン民族の法慣習を強く表現するものであった。
アルボインは、まもなく王妃の手にかかって倒れた。
そののちの十年ほどの王位空白の期間に、ランゴパルド候の各氏族は、それぞれの首長にひきいられて、半島各地を占拠した。
なかでも、南イタリアのスポレト、ぺルベントを支とした二氏族は、ミラノ北方のモンツァを首卸とする王家の系譜が北イタリアに確立したのち、なかば自立的な候領を形成した。
今日においてもイタリアの大きな政治問題となっている南北イタリアの対立は、その根源をじつに、ここに発しているのである。
東ローマ帝国は、なおイタリア総督府をラベンナにおき、ランゴバルド王国と協定をむすんで、ラベンナ、ベネチア、ローマを南北につなぐ帯状の地帯と、長靴の爪先と踵(かかと)の部分、つまりカラブリアとアプリア、ざらにナポリ、ジェノバの両都市に対する宗主権を確保したが、事実上、イタリア半島を失った。
実際、東ローマ帝国としては、イタリア半島どころではなかった。
帝国の心臓部であるシリア、エジプトが、ササン朝ペルシァの脅威にさらされていたのである。
そのうえ、北方のアバール族、スラブ諸族の動きがはげしかった。
そして、ペルシァの脅威をようやくにして退けてみれば、さらに恐ろしい敵、若々しいイスラム教徒が東部地中海に征服の手をひろげてきた。
老大国東ローマは、ユスティニアヌスの夢をふたたび追うよりも、まず帝国の保全に力をつくさなければならなかった。
ユスティニアヌス没後、帝権はいちじるしく衰弱し、ついに、七世紀初頭、反乱を起こした軍隊に擁立された帝位潜称者フォーカスが出現した。
ランゴバルド族と協定をむすび、彼らのイタリア支配を認めるにいたったのは、この皇帝の代のことである。
アフリカ総督の息子ヘラクリウスは、ここにクーデターを起こし、六一〇年、帝権を掌握した。これがヘラクリウス朝(七一七年まで)の統治のはじまりである。
ヘラクリウスの統治(六一〇~四一)の初年、北方のアバール族は、「アナスタシウスの壁」を越え、首都にせまっていた。
ペルシァ軍は、ダマスクスとイェルサレムを占拠し、エジプトに遠征軍を送り、アレクサンドリアを攻囲していた。
六一七年、小アジア半島に侵入したペルシァ軍は、コンスタンティノープルの対岸に陣をかまえ、アバール族と呼応して、東ローマ帝国の息の根をとめようとする勢いだった。ヘラクリウスはアバール族を買収し、全力を対ペルシァ戦にそそいだ。
守勢をすててあえて攻勢にでた東ローマ軍は、海路、小アジア半島のつけ根、イプソスにまわり、六二二年、ペルシァ軍を破って、アルメニア地方に進出することに成功した。
そこを基地としたヘラクリウスは、六二七年、ニネベにペルシァ王コスロー二世と戦い、これを破り、その勢いをかって、翌年、ペルシァの首都クテシフォン城門にせまり、ペルシァに和平を強要した。
ここにペルシァの脅威は去り、オリエント(東方)の領土は、ともかくも保全された。
だが、イッソスの勝利の年、六二二年こそは、じつに、マホメットの聖遷(ヘジラ)の年であった。
ヘラクリウスの輝かしい勝利は、おそらく彼が夢想さえしなかったにちがいないアラブ人の活動によって、まもなく、なんの意味ももたなくなってしまったのである。
イスラムの予言者マホメットが、その教義の峻厳さにより、メッカでの宣教にはげしい迫害をうけたため、信徒とともにメディナへ逃れた聖遷(ヘジラ)の年(六二二年)から、マホメッ卜の死をむかえた六三二年までの十年間に、アラブ半島の全スラブ民族は、イスラムの旗のもとに統一された。
イスラムとは「神への服従」を意味し、信徒には「聖戦(ジハルド)」の義務が課せられる。
初代カリフ(マホメットの後継者)アブー・バクルの代、使命感にもえたアラブ軍団のエネルギーは、奔流のような勢いで、半島の外へ流れ出た。
「イスラムの剣」とあだなされた名将ワリードのひきいるイスラム軍団は、六三四年、死海南岸に東ローマ帝国のシリア方面軍を破り、ダマスクスを占領した。
意外な情勢の展開におどろいたヘラクリウス帝は、いそいで大軍をシリアに南下させた。
両軍は、六三六年、ヨルダン川の支流ヤルムーク川のほとりで会戦した。
熱風の吹きあれる盛夏八月のことであった。
東ローマ軍は壊滅した。ダマスクスに半月旗がひるがえり、シリアはアラブ領と確定した。
これが東ローマ帝国とペルシァ帝国にとっては悲劇の、イスラム帝国にとっては勝利の序奏であった。
六四一年のネハーベントの戦いに死力をつくしたのち、ササン朝ペルシァ帝国は倒れ、ペルシァ領メソポタミアは、イスラム帝国に併合された。
これと併行して、西方エジプトに向かったアラブ勢は、六四二年、アレクサンドリアを占拠し、東ローマ帝国は、エジプトを失った。
さらに西に進んでチュランアを、海上に出てキプロスを攻略した半月旗軍を押しとどめようと、六五五年、東ローマ帝国艦隊は、小アジア半島のキリキアの沖あいにアラブ艦隊と対決したが、あえなく壊滅した。
こうして、東ローマ帝国は、七世紀の中葉に、オリエント、および東部地中海に対する統制権をまったく失った。
七世紀の後半には、東ローマ帝国はペルシァ帝国のあとを追うかのようにみえた。
六六一年に成立したサラセン帝国ウマイヤ朝は、首都をダマスクスにおき、陸路を小アジア半島の内陸経由で、海路を小アジア半島沿岸ぞいに、東ローマ帝国攻勢の歩を進めた。
六七三年から八年にかけて、コンスタンティノープルは、海陸両面から攻囲された。
だが、このころすでに、ヘラクリウス帝によってその基礎のおかれた東ローマ帝国の国制改革は、ようやくその実をむすびつつあった。
これは、簡単にいえば、都市経済の主要な拠点てあったシリア、エジプトを失った事態に対応して、小アジア、バルカン半島の自作農を育成する政策であった。
この自作農は農兵としての性格をもち、各軍管区の長官に統率される。
生活の基盤をしっかりとあたえられ、訓練のゆきとといた兵士たちの軍隊がここに創出され、これがアラブ勢の攻勢をよく排除しえたのであった。
東ローマの海軍は、アラブ艦隊がボスポラス海峡にはいるのをゆるさず、「ギリシア火」と呼ばれた一種の火薬(硫黄を主成分にした発火性物質)を使って、アラブ勢をさんざんに苦しめた。
小アジア半島のアラブ勢は、だいたい、タルソスから黒海の東端にいたる線までに押しかえされた。
七一七年、コンスタンティノープルはふたたびアラブ勢に攻囲された。
だが、東ローマは、この年帝位についたイサウリア朝のレオ三世の指導のもとに、一年間の攻防の末、首都の防衛に成功した。
東ローマ帝国は滅亡をまぬがれ、東部地中海の制海権も奪回することができた。