『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
12 元朝の支配
6 漢人と南人
元朝では社会の階層を大きく三つ、あるいは四つにわけた。
第一は、モンゴル人(蒙古)である。
第二は、色目人ある。
そして第三が、漢人であった。
漢人を、さらに二つにわけることもあった。
その場合は第三が漢人、第四が南人となった。
ここで「漢人」というのは、かって金国の統治下にあった人々である。
いわゆる中国人のほかに、契丹人(遼)や女真人(金)も、第三の「漢人」のなかにふくまれた。
そして「南人」というのは、かって南宋の治下にあった人々である。
おなじ中国人であっても、最後まで元朝に抵抗した人々は、もっとも冷遇されたわけであった。
漢人や南人は、その社会において差別されたばかりではなかった。
政治の世界における差別は、いっそうきびしかった。
高位や高官にのぼれないことは、いうまでもない。
公式の席では、つねにモンゴル人や色目人の下風に立った。
役人になる道といえば、これまでは科挙である。
元朝では、はじめは科挙さえも行われなかった。
つまり中国人は、官界にはいる道をとざされたのである。
ようやく世祖(フビライ)のつぎの成宗の代になって、科挙が行われた。
ところが、ここでも蒙古と色目、そして漢人と南人とは、別の試験を課された。
課題に難易の差をつけたのであった。
科挙の制度は、成宗から一代おいて、仁宗の代(二二○年代)に完備された。
三年ごとに施行され、地方における郷試に合格した者が、大都に上って会試をうけ、さらに御試をうけて進士となる。
こうした点は、宋代とほぼ同じであった。しかし、採用の人員において、差別をつけられていた。
たとえば仁宋の延祐元年(一三一四)の例をみよう。
この年の郷試に合格した者は、あわせて三百人であった。
その内訳は、蒙古・色目・漢人・南人、それぞれ七十五人である。
この人たちが翌年二月、大都において会試をうけた。合格者は百人、そして内訳は二十五人ずつであった。
最後の御試には五十六人が合格している。
その内訳は明らかでないが、おそらく十四人ずつに配分されたものであろう。
すなわちモンゴル人も色目人も、漢人も南人も、おなじ数の人員を合格させた。
これは、いかにも公平なように見えるけれども、実質ははなはだ不公平である。
四つの階層のあいだでは、全体の人口が、まったく違うのである。
モンゴル人と色目人の数は、それぞれ百万人ぐらいと推定されよう。
これに対して漢人は一千万人、南人の数は六千万人をこえていた。
まして科挙の課目は、儒学の教養が主体である。
そうした教養をもつ者で比較すれば、漢人や南人は、モンゴル人や色目人の何十倍にあたるであろうか。
元朝の科挙は、モンゴル人と色目人にとっては広き門であり、中国人にとってはきわめて狭き門であった。
こうした差別がつけられるほどであるから、儒学の教養あるインテリも、元朝では軽く見られた。
ここに興味ふかい表がある。中国人の社会的地位を、職掌によってわけだものである。
一、官 二、吏 三、僧 四、道 五、医 六、工
七、猟または匠 八、民または娼 九、儒 十、丐(かい=こじき)
もはや儒学に通じた最高のインテリも、官または吏にならなければ、社会の下積みでしかなかった。
といって官界をこころざしても、科挙に合格することは至難である。
そこで生活のためには、身を屈して吏となった。吏というのは、官ではない。
つまり科挙をへずに役人となったもので、下級の事務員である。ふつう、胥吏(しょり)とよばれた。
科挙にとおって官になった者は、地方に赴任してもおおむね長官となる。
それも数年で転勤しつつ、栄進してゆく。
知識人ではあっても、その教養は儒学や詩文であって、実務には暗い。
じっさいに実務にたずさわるのは、胥(しょ)吏であった。
まして元朝では、地方官として赴任してくる者は、モンゴル人や色目人が少なくない。
実務に暗いばかりか、言葉の通じない者さえいる。行吏の役割は、いよいよ大きいものとなった。
元朝が、ともかく中国の統治をおこなうことができたのも、こうした胥吏をもちいたからである。
下級の胥吏だけが、中国人インテリにひらかれた活躍の舞台であった。
もちろん中国人とて、このような差別に甘んじていたわけではない。
武力はなくとも、文章の力があった。
その精神の底に、中国の民族としてのほこりがあった。
たとえ機会をあたえられても、モンゴル人のもとでは、仕官をいさぎよしとしない硬骨の士も多かった。
彼らは隠士と袮して、民間にかくれた。あえて世に出ようとはしなかった。
雑劇の筆をとった者もあった。
これは末代から、しだいにさかんになってきた演劇であり、一種のオペラである。
元代にはすこぶる盛行したので、「元曲」ともよぱれる。
あまたの名曲が生まれ、多くの作者があらわれているなかでも、関漢卿や馬致遠など、とくに名が高い。
元曲のせりふは、すべて口語であった。だれにもわかりやすかった。
よって大いに庶民の喝采をあびた。
主題としては人情ものや合戦ものなど、さまざまの種類があったが、異民族との抗争をえがいたものも、少なくない。
それは、とりもなおさず、現実のモンゴル人の支配につながる問題であった。
小説があらわれてきたのも、やはり元代である。
宋代からはやっていた講釈が、いまや文章として書かれ、それも口語であったから、しだいに庶民のなかに普及していった。
『水渋伝』や『三国志演義』は、こうして生まれたのである。
前の時代の宋江など、百八人(三十六人からさらに増える)の豪傑のように、中国人のあばれまわる時期も、やがてはくるであろう。
むかしの劉備や諸葛孔明のように、強い相手を手玉にとって活躍する英雄も、やがてはあらわれるであろう。
そのときも、けっして遠くはなかった。元朝の支配がゆるむとともに、反抗の軍は各地におこる。
そして中国人の結集した力は、ついにモンゴル人の天下をくつがえしてしまうのであった。
モンゴル人は、金をほろぼしてから百三十余年、南宋をほろぼしてから九十年にして、中国の地を去った。
12 元朝の支配
6 漢人と南人
元朝では社会の階層を大きく三つ、あるいは四つにわけた。
第一は、モンゴル人(蒙古)である。
第二は、色目人ある。
そして第三が、漢人であった。
漢人を、さらに二つにわけることもあった。
その場合は第三が漢人、第四が南人となった。
ここで「漢人」というのは、かって金国の統治下にあった人々である。
いわゆる中国人のほかに、契丹人(遼)や女真人(金)も、第三の「漢人」のなかにふくまれた。
そして「南人」というのは、かって南宋の治下にあった人々である。
おなじ中国人であっても、最後まで元朝に抵抗した人々は、もっとも冷遇されたわけであった。
漢人や南人は、その社会において差別されたばかりではなかった。
政治の世界における差別は、いっそうきびしかった。
高位や高官にのぼれないことは、いうまでもない。
公式の席では、つねにモンゴル人や色目人の下風に立った。
役人になる道といえば、これまでは科挙である。
元朝では、はじめは科挙さえも行われなかった。
つまり中国人は、官界にはいる道をとざされたのである。
ようやく世祖(フビライ)のつぎの成宗の代になって、科挙が行われた。
ところが、ここでも蒙古と色目、そして漢人と南人とは、別の試験を課された。
課題に難易の差をつけたのであった。
科挙の制度は、成宗から一代おいて、仁宗の代(二二○年代)に完備された。
三年ごとに施行され、地方における郷試に合格した者が、大都に上って会試をうけ、さらに御試をうけて進士となる。
こうした点は、宋代とほぼ同じであった。しかし、採用の人員において、差別をつけられていた。
たとえば仁宋の延祐元年(一三一四)の例をみよう。
この年の郷試に合格した者は、あわせて三百人であった。
その内訳は、蒙古・色目・漢人・南人、それぞれ七十五人である。
この人たちが翌年二月、大都において会試をうけた。合格者は百人、そして内訳は二十五人ずつであった。
最後の御試には五十六人が合格している。
その内訳は明らかでないが、おそらく十四人ずつに配分されたものであろう。
すなわちモンゴル人も色目人も、漢人も南人も、おなじ数の人員を合格させた。
これは、いかにも公平なように見えるけれども、実質ははなはだ不公平である。
四つの階層のあいだでは、全体の人口が、まったく違うのである。
モンゴル人と色目人の数は、それぞれ百万人ぐらいと推定されよう。
これに対して漢人は一千万人、南人の数は六千万人をこえていた。
まして科挙の課目は、儒学の教養が主体である。
そうした教養をもつ者で比較すれば、漢人や南人は、モンゴル人や色目人の何十倍にあたるであろうか。
元朝の科挙は、モンゴル人と色目人にとっては広き門であり、中国人にとってはきわめて狭き門であった。
こうした差別がつけられるほどであるから、儒学の教養あるインテリも、元朝では軽く見られた。
ここに興味ふかい表がある。中国人の社会的地位を、職掌によってわけだものである。
一、官 二、吏 三、僧 四、道 五、医 六、工
七、猟または匠 八、民または娼 九、儒 十、丐(かい=こじき)
もはや儒学に通じた最高のインテリも、官または吏にならなければ、社会の下積みでしかなかった。
といって官界をこころざしても、科挙に合格することは至難である。
そこで生活のためには、身を屈して吏となった。吏というのは、官ではない。
つまり科挙をへずに役人となったもので、下級の事務員である。ふつう、胥吏(しょり)とよばれた。
科挙にとおって官になった者は、地方に赴任してもおおむね長官となる。
それも数年で転勤しつつ、栄進してゆく。
知識人ではあっても、その教養は儒学や詩文であって、実務には暗い。
じっさいに実務にたずさわるのは、胥(しょ)吏であった。
まして元朝では、地方官として赴任してくる者は、モンゴル人や色目人が少なくない。
実務に暗いばかりか、言葉の通じない者さえいる。行吏の役割は、いよいよ大きいものとなった。
元朝が、ともかく中国の統治をおこなうことができたのも、こうした胥吏をもちいたからである。
下級の胥吏だけが、中国人インテリにひらかれた活躍の舞台であった。
もちろん中国人とて、このような差別に甘んじていたわけではない。
武力はなくとも、文章の力があった。
その精神の底に、中国の民族としてのほこりがあった。
たとえ機会をあたえられても、モンゴル人のもとでは、仕官をいさぎよしとしない硬骨の士も多かった。
彼らは隠士と袮して、民間にかくれた。あえて世に出ようとはしなかった。
雑劇の筆をとった者もあった。
これは末代から、しだいにさかんになってきた演劇であり、一種のオペラである。
元代にはすこぶる盛行したので、「元曲」ともよぱれる。
あまたの名曲が生まれ、多くの作者があらわれているなかでも、関漢卿や馬致遠など、とくに名が高い。
元曲のせりふは、すべて口語であった。だれにもわかりやすかった。
よって大いに庶民の喝采をあびた。
主題としては人情ものや合戦ものなど、さまざまの種類があったが、異民族との抗争をえがいたものも、少なくない。
それは、とりもなおさず、現実のモンゴル人の支配につながる問題であった。
小説があらわれてきたのも、やはり元代である。
宋代からはやっていた講釈が、いまや文章として書かれ、それも口語であったから、しだいに庶民のなかに普及していった。
『水渋伝』や『三国志演義』は、こうして生まれたのである。
前の時代の宋江など、百八人(三十六人からさらに増える)の豪傑のように、中国人のあばれまわる時期も、やがてはくるであろう。
むかしの劉備や諸葛孔明のように、強い相手を手玉にとって活躍する英雄も、やがてはあらわれるであろう。
そのときも、けっして遠くはなかった。元朝の支配がゆるむとともに、反抗の軍は各地におこる。
そして中国人の結集した力は、ついにモンゴル人の天下をくつがえしてしまうのであった。
モンゴル人は、金をほろぼしてから百三十余年、南宋をほろぼしてから九十年にして、中国の地を去った。