
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
12 唐朝の女禍
2 皇后の座へ
宮中にはいった武照は、昭儀という女官の位についたが、たちまちにして高宗の愛情を独占した。
もはや王皇后も蕭淑妃(しょうしゅくひ)も、ともに高宗から顧みられない。
それでも武昭儀は、高宗だけではなく、王皇后にもうまく仕え、まわりの女官たちの心もつかんでしまった。
しかし高宗とて、王皇后を廃して、かわりに武昭儀を皇后にたてようとは考えなかった。
そのころ武昭儀は女の子をうんだが、子のない王皇后はこれをかわいがって、あやしにくる。
ある日のこと、王皇后が女の子の室をでたとき、武昭儀はじぶんの手でその子を殺し、ふとんをかけておいた。
ちょうどそこへ高宗がはいってきた。
武昭儀はわざとニコニコ顔をして、ふとんをめくった。女の子は冷たくなっていた。
武昭儀は驚いたふりをして、侍女にようすをたずねた。
侍女は答えた、「いま皇后さまがお見えになりました」。
高宗はこれを真にうけて、「皇后がわしの娘を殺したか」とおこりたし、武昭儀は泣きながら王皇后をあしざまにののしった。
王皇后としては弁解のしようもなかった。この事件で高宗は、王皇后を廃する決意をしたという。
しかし皇后を廃するといっても、簡単にはできない。
とくにたよりない高宗には、伯父(おじ)で元勲の長孫無忌がひかえていた。
高宗と武昭儀は、かわるがわる長孫無忌のところへ王皇后を廃することをたのみにいったが、そんなことをたやすく承知する無忌ではなかった。
しかも太宗のとき以来の元老たちは、すべて無忌の側についている。廃后のことは容易に進まなかった。
しかし高官のなかには、将来を見とおして、じぶんの有利をはかろうとする者もあらわれる。
ついに朝廷は、武昭儀を皇后とすることの可否をめぐって、二派にわかれてあらそわれるようになった。
そうしたある日、高宗は反対派の李勣(りせき)をよび出して、意見をもとめた。すると李勣は答えた。
「これは陛下の家事(うちわのこと)、ほかの者がとやかくいうことではありません」。
老将軍の李勣も頭がぼけたか反対派に懐柔されたか、であろう。
そこで、すかさず賛成派の許敬宗は申したてた。
「田舎のおやじでも、十斛(こく)麦が多くとれるようになると、嫁をとりかえたがります。
まして天子が皇后を立てようとするのに、臣下にいちいち相談してごちゃごちゃいわせる必要などありません」。
ついに廃后のことがきまった。あくまで反対した褚遂良(ちょすいりょう)は地方に左遷された。
永徽(えいき)六年(六五五)十月十三日、王皇后と蕭淑妃は毒殺の計画があったことを理由に、すべての栄誉を剥奪され、かわって武昭儀が皇后となる。
ときに二十八歳であった。かくて武后とよばれる。則天というのは後世の諡(おくりな)である。
廃された王氏と蕭氏は、一室のなかに幽閉されていた。
あるとき高宗が、ふたりのことを思いだして見舞いにいくと、壁の穴から食事だけ入れてもらっている。
あまりのことにいたましくなって、思わず「皇后と淑妃はどこにおるか」と叫んでしまった。
むかしの尊称で呼んでもらって、王氏はなつかしさのあまり泣きだした。
「天子さま。もし、むかしのことを思いだしてくださいますならば、私たちにもういちど日の目を見せてくださいませ」。
「なんとかしてみよう」と答えて、高宗はかえった。
このことを聞いた武后は、大いに腹をたてた。
王氏と蕭氏をひきだして、杖で百たたき、そのうえ手足を切って酒甕(さけがめ)のなかにいれ、
「二人のばばあめ! 骨まで酔わしてやる」と叫んだ。
ついに数日して二人は死んだ。その死体をさらに切りきざんだ。
さきに蕭氏は「阿武(あぶ=武后をののしって言う)のやつめが、このような目にあわせたのだ。
もういちど猫となって生まれかわり、阿武を鼠に生まれさせて、生きながらその喉をしめつけてやる」と叫んだという。
このため、これから宮中では猫を飼わなくなった。
また武后は、しばしば王氏と蕭氏とがざんばら髪で血だらけになって死んだときの姿のおばけを見る。
よって御殿をうつったが、また出る。ついに首都の長安を逃げだし、洛陽にうつって、最後まで長安にかえらなかった。
このころ武后のお気にいりの李義府が宰相となった。
外見はおとなしいふうをよそおって、いつも微笑していたが、内心は陰険で、「義府の笑いのなかには刀あり」といわれた。
李義府は高宗や武后の恩寵(おんちょう)をたのみ、多くの官職を自分の意のままに任命し、その一族のものまで売官をするありさまであった。
それにひきかえ反対派の楮遂良らは、ますます左遷されていった。
しかし高宗と武后にとって、もっともけむたい存在である長孫無忌は、なお健在であった。
そのころひとつの事件がおこった。その背後には無忌がいる、と告げる者がある。
「やるときにやっておきませぬと、こちらがひどい目にあいますぞ」と申したてる者もあった。
ついに無忌は流刑となり、おいかけるように自殺を命ぜられた(顕慶四年 六五九)。
これで武后を立てることに反対した者は、ことごとく葬りさられたのである。
また、建国このかたの支配集団は、ここに一変したのである。まさしく唐朝にとって、ひとつの転換期であった。
12 唐朝の女禍
2 皇后の座へ
宮中にはいった武照は、昭儀という女官の位についたが、たちまちにして高宗の愛情を独占した。
もはや王皇后も蕭淑妃(しょうしゅくひ)も、ともに高宗から顧みられない。
それでも武昭儀は、高宗だけではなく、王皇后にもうまく仕え、まわりの女官たちの心もつかんでしまった。
しかし高宗とて、王皇后を廃して、かわりに武昭儀を皇后にたてようとは考えなかった。
そのころ武昭儀は女の子をうんだが、子のない王皇后はこれをかわいがって、あやしにくる。
ある日のこと、王皇后が女の子の室をでたとき、武昭儀はじぶんの手でその子を殺し、ふとんをかけておいた。
ちょうどそこへ高宗がはいってきた。
武昭儀はわざとニコニコ顔をして、ふとんをめくった。女の子は冷たくなっていた。
武昭儀は驚いたふりをして、侍女にようすをたずねた。
侍女は答えた、「いま皇后さまがお見えになりました」。
高宗はこれを真にうけて、「皇后がわしの娘を殺したか」とおこりたし、武昭儀は泣きながら王皇后をあしざまにののしった。
王皇后としては弁解のしようもなかった。この事件で高宗は、王皇后を廃する決意をしたという。
しかし皇后を廃するといっても、簡単にはできない。
とくにたよりない高宗には、伯父(おじ)で元勲の長孫無忌がひかえていた。
高宗と武昭儀は、かわるがわる長孫無忌のところへ王皇后を廃することをたのみにいったが、そんなことをたやすく承知する無忌ではなかった。
しかも太宗のとき以来の元老たちは、すべて無忌の側についている。廃后のことは容易に進まなかった。
しかし高官のなかには、将来を見とおして、じぶんの有利をはかろうとする者もあらわれる。
ついに朝廷は、武昭儀を皇后とすることの可否をめぐって、二派にわかれてあらそわれるようになった。
そうしたある日、高宗は反対派の李勣(りせき)をよび出して、意見をもとめた。すると李勣は答えた。
「これは陛下の家事(うちわのこと)、ほかの者がとやかくいうことではありません」。
老将軍の李勣も頭がぼけたか反対派に懐柔されたか、であろう。
そこで、すかさず賛成派の許敬宗は申したてた。
「田舎のおやじでも、十斛(こく)麦が多くとれるようになると、嫁をとりかえたがります。
まして天子が皇后を立てようとするのに、臣下にいちいち相談してごちゃごちゃいわせる必要などありません」。
ついに廃后のことがきまった。あくまで反対した褚遂良(ちょすいりょう)は地方に左遷された。
永徽(えいき)六年(六五五)十月十三日、王皇后と蕭淑妃は毒殺の計画があったことを理由に、すべての栄誉を剥奪され、かわって武昭儀が皇后となる。
ときに二十八歳であった。かくて武后とよばれる。則天というのは後世の諡(おくりな)である。
廃された王氏と蕭氏は、一室のなかに幽閉されていた。
あるとき高宗が、ふたりのことを思いだして見舞いにいくと、壁の穴から食事だけ入れてもらっている。
あまりのことにいたましくなって、思わず「皇后と淑妃はどこにおるか」と叫んでしまった。
むかしの尊称で呼んでもらって、王氏はなつかしさのあまり泣きだした。
「天子さま。もし、むかしのことを思いだしてくださいますならば、私たちにもういちど日の目を見せてくださいませ」。
「なんとかしてみよう」と答えて、高宗はかえった。
このことを聞いた武后は、大いに腹をたてた。
王氏と蕭氏をひきだして、杖で百たたき、そのうえ手足を切って酒甕(さけがめ)のなかにいれ、
「二人のばばあめ! 骨まで酔わしてやる」と叫んだ。
ついに数日して二人は死んだ。その死体をさらに切りきざんだ。
さきに蕭氏は「阿武(あぶ=武后をののしって言う)のやつめが、このような目にあわせたのだ。
もういちど猫となって生まれかわり、阿武を鼠に生まれさせて、生きながらその喉をしめつけてやる」と叫んだという。
このため、これから宮中では猫を飼わなくなった。
また武后は、しばしば王氏と蕭氏とがざんばら髪で血だらけになって死んだときの姿のおばけを見る。
よって御殿をうつったが、また出る。ついに首都の長安を逃げだし、洛陽にうつって、最後まで長安にかえらなかった。
このころ武后のお気にいりの李義府が宰相となった。
外見はおとなしいふうをよそおって、いつも微笑していたが、内心は陰険で、「義府の笑いのなかには刀あり」といわれた。
李義府は高宗や武后の恩寵(おんちょう)をたのみ、多くの官職を自分の意のままに任命し、その一族のものまで売官をするありさまであった。
それにひきかえ反対派の楮遂良らは、ますます左遷されていった。
しかし高宗と武后にとって、もっともけむたい存在である長孫無忌は、なお健在であった。
そのころひとつの事件がおこった。その背後には無忌がいる、と告げる者がある。
「やるときにやっておきませぬと、こちらがひどい目にあいますぞ」と申したてる者もあった。
ついに無忌は流刑となり、おいかけるように自殺を命ぜられた(顕慶四年 六五九)。
これで武后を立てることに反対した者は、ことごとく葬りさられたのである。
また、建国このかたの支配集団は、ここに一変したのである。まさしく唐朝にとって、ひとつの転換期であった。