
『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
13 ロシアの歴史をさかのぼって
3 ルスの洗礼
このウラジーミルもはじめは、異教であるスラブの神々の熱烈な信奉者であった。
九八〇年彼はキエフに、頭髪は銀、ひげは金というとほうもなく豪奢(ごうしゃ)な雷神ペルーンの大像をつくらせているが、このころがロシアにおけるスラブ教の全盛時代であった。
当時のロシア人がキリスト教を嫌ったのは、それがスラブの慣習であった「多妻制」を禁じたからともいわれる。
古いスラブ社会には「ウムイチカ」とよぶ掠奪結婚の風習――つまり、他村からかねて目をつけておいた花嫁を強奪してくる――があった。
それはたいてい湖や川のほとりで村の青年男女がたくさん集まる「お祭り」のときに行なわれたが、娘を盗まれた親たちも黙っているはずはなく、それがひいては部落間の争いにもなる。
そこで調停がなり、「ベーノ」とよばれる身代金(すなわち結納金)が娘の親たちに支払われるというしきたりが生まれた。
この間の事情を示す次のような会話がある。
花嫁のそばに兄とおぼしき男が坐っている。
そこで、「あなたはどうしてそこにいるのです。」
「私は自分の妹を守るためです。」
「しかし彼女はもう私のもので、あなたのものではありませんよ。」
「そんなら彼女の養育費を支払ってください。着せたり、食べさせたり、飲ませたりしてきたのですから。」
いずれにせよ、スラブの多妻制が富者のためのものであったことはいうまでもなく、ウラジーミル大公のごときは、五人の正妻のほかに、「ビジゴロドに三百、ベルゴロドに三百、ペレストーボに二百」の側室がいたというから、話半分にしてもすさまじい。
このウラジーミル大公にキリスト教への改宗を決意させたものは、スラブの異教が、ようやく繁栄にむかってきたキエフ国家の宗教として、あまりにも時代おくれとなっていることであった。
彼が洗礼するいきさつは、年代記によると、次のとおりである。
あるとき、彼は、クリミア半島にあった東ローマ帝国領の都市ケルソン(ヘルソネス)を攻めてこれを倒し、そこから東ローマ皇帝に書を送って、皇帝の妹を妻にほしいと申し入れ、もしききいれなければコンスタンティノープルに攻めのぼると威嚇した。
そこで皇帝は、「キリスト教徒は異教徒と結婚できない。私の妹がほしいたら、洗礼しなさい」――と回答した。
するとウラジーミルは、「それなら、あなたの妹御といっしょに聖職者をよこしてほしい。そうすれば洗礼する」と伝えた。
皇妹アンナは「それは人身御供(ひとみごくう)になるようなもので、死んだほうがましです」とこの結婚をいやがったが、ついに皇帝に説得されてしぶしぶ船にのり、ケルソンにわたった。
ウラジーミルはそのころ眼をわずらい、まさに失明するばかりであったが、洗礼をうけたとたんに眼がなおり、「いまこそ私にはほんとうの神がわかった」と感嘆し、これを見てそばにいた親兵団もあらそって洗礼したという。
さて、キエフにもどると大公は、全国に命じて、改宗を強制させた。
ドニエプル河畔に市民がかり出され、「あるものは首まで、あるものは胸まで、また子供たちは岸辺で、それぞれ水につかり」、集団洗礼が行なわれたと年代記は伝えている。
そしてこれより、キエフ・ルスは面目を一新する。
ペルーンの像はドニエプル川に投げこまれ、そのあとに石造りのりっぱな教会が建ち、ビザンティンからは工匠、学者が招かれ、宮殿や寺院は美しいモザイク、壁画、彫刻でかざられ、聖書や教父伝が翻訳され、年代記が書かれ、法典が編纂(へんさん)される。
ウラジーミルの息子ヤロスラフ大公のとき、キエフは「富の宝庫」としてその黄金時代をむかえて、聖ソフィア寺院、ペチョールスキー修道院をはじめ「四百の教会と八十の市場」があったといわれる。
ブレーメンからこの地を訪れたアダムズというものの言によると、「キエフはコンスタンティノープルに匹敵した」。
