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5-11-1 英仏百年戦争

2023-05-19 00:24:10 | 世界史
『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
11 狂王シャルル六世治下のフランス
――英仏百年戦争――
1 国王シャルル六世の発狂

 一三九二年の夏八月のことである。
 フランス国王シャルル六世の一行は、ルーマンの町をたち、つぎの巡行地へと向かった。道は、やがて、ルーマンの森のなかへ一行をみちびいた。
 「突然、ひとりの男があらわれた。
 純白の頭には帽子もかぶらず、うす汚れた灰褐色の粗衣を身につけたその男は、二本の木のあいだに立ちはだかり、王の乗馬の手綱をつかんで、無言のうちに王を押しとどめ、こういった、『王よ、これより先に進みめされるな。おもどりあれ、裏切りがありますぞ』」。

 一行は、これを気のふれた者のでたらめな言葉ときき流して、先に進んだ。
 そしてやがて森の外の砂地の平地にでた。
 時は正午に近く、「太陽は美しく、かげりひとつみせず、さんさんと光り琿いていた。
 これ以上はないというほど強く、激しい熱を放っていた。
 たたきつけるような太陽光線の強い照り返しが、一行のからだに容赦なくしみこんだ。
 細かな砂が熱をふくみ、まいあがる砂ぼこりが馬を熱した」。
 王は一行のまいあげる埃(ほこり)をきらい、少し離れて、黙々と馬を進めていた。
 ふたりの叔父、ペリー侯ジャンとブルゴーニュ侯フィリップとは、馬をならべてなにごとかを語らいあっていた。
 王弟オルレアン侯ルイ、ブルボン候ルイもそのそばに馬を進めていた。
 真夏の太陽がじりじりと照りつけていた。刻一刻と運命の時が近づいていた。

 「王は黒のビロードの胴衣をつけていた。からだが熱気を吸いこんでいた。
 頭には朱色の羅紗(らしゃ)地の頭巾(ずきん)をつけた上に、白い大粒の真珠をたくさん飾りつけた帽子をのせていた。これは、別れにさいして、王妃から贈られたものである。
 王の背後に騎馬の小姓が従っていたが、その頭上の兜(かぶと)は、モントーバンの町の職人の手になる一枚鋼(はがね)ずくりで、なめらかにみがかれたその表面が、太陽にきらきら輝いていた。
 この小姓の背後に、もうひとり騎馬の小姓が、絹の房飾りも美しい朱色の槍をもって、従っていた。
 槍は、幅広の鋼の穂先を明るくきらめかせていた。
 この鋼の穂先は、ラ・リビエール卿が、ツールーズに滞在中、鍛錬させた十二本のうちの一本であった。
 もともと十二本とも王に献じられたのだが、王は、そのうち三本をオルレアン侯に、三本をブルボン侯にあたえたのであった。
 さて、こんなぐあいに列をくんで馬を進めていたのだが、だいたいが、年端(としは)のゆかぬ者たちは、騎行するとき、乗った馬のせいでか、心の怠(おこた)りのせいでか、ときに心の乱れることがある。
 ちょうどそんなことなのか、王の槍をもつ小姓が心乱れたか居眠りしたかで、注意力を失ってしまった。
 槍は、そしてその鋼の穂先は、もうひとりの小姓がかぶっていた鋼づくりの帽子の上に落ちた。
 鋼と鋼とがぶつかりあい、高らかな響きを発した。
 ふたりは王の馬のひづめの跡を、ひとつひとつ追いかけるほど、ぴったりと王についていたのだから、王はすぐ間近にいたのだった。
 鋼のぶつかる音に、王は一瞬とびあがった。王の心はふるえた。なにしろ王の心には、ルーマンの森で、かの狂人だが賢者だかのいった言葉が、なお余韻を残していたのたったから。
 敵の大軍が、彼を殺害しようと襲いかかる幻に、王の弱い頭は狂った。
 馬に拍車を入れたかとみると、前へとびだし、馬首をめぐらせて、小姓たちに向かって剣をぬきはなった。
 王にはそれが小姓たちとはみえなかった。だれかれの見境がつかなくなってしまったのである。
 そして、戦場で、敵勢に囲まれているのだと思いこんでしまった。
 王は馬上にのびあかって剣をふりかざし、相手がだれだかもかまわず、『出会え! 出会え! 裏切りだぞ』とわめきながら、斬ったり、突いたりした。
 ふたりの小姓は、王が怒り抂っているのをみて、なにがなんだかわけがわからなかった、それはもっともなことだが。
 ともかく、自分たちの不注意で王を怒らせたのだろうと考えた。
 そして馬に拍車を入れ、べつべつの方向に逃げだした。
 オルレアン侯は、そのとき、王からあまり離れてはいなかった。
 王は、抜き身の剣をひっさげて、彼のほうに向かった。
 頭のすっかり狂った王には、それが誰だかわからなかったのである。
 兄弟も叔父も、王には見分けがつかなかったのである。
 抜き身の剣を手にした王がせまってくるのをみたオルレアン侯は、そのまま待つていようとはしなかった。
 それはもっともな話しである。いそいで馬に拍車を入れたのだが、王もまた馬をいそがせた。
 ブルゴーニュ候は、わきのほうで馬を進めていたが、馬どもがさわぐのと、王の小姓たちの叫び声とに気がついて、騒ぎのおこっている方角に視線を向けた。
 と、彼の目に映じたのは、王が抜き身の剣を手に、自分の弟を追いまわしている光景だった。
 まったくもっともなことだが、彼はたいへんおどろいた。
 そして、こういった、『逃げろ、甥のオルレアン侯よ、逃げろ、殿はおまえを殺そうとしているぞ』」。

 以上は、年代記家ジョン・フロワサールの文章である。
 王の槍についての記述の脱線ぶりといい、「それはもっともなことだが」という感想の挿入といい、中世の記述の特性をよく示している文章だが、しかし、事件の報告の骨格ははっきりしている。
 フランス国王シャルル六世は発狂した。
 彼は、その父シャルル賢王が一三八〇年に没したとき、まだ十二歳の少年であり、親政に入ったのは二十歳の一三八八年のことであった。
 だから、わずか四年で、ふたたび、王国の政治は国王を失ったのである。
 政治の実権は、国王の親族の手に、なかでも有力な叔父のブルゴーニュ侯フィリップと王弟オルレアン侯ルイの手中にゆだねられた。
 ちょうど、イギリスとのあいだの武力抗争、いわゆる百年戦争が、ようやくその前段を終了した時期であって、フランスは、賢王シャルル五世の代に、それ以前の段階で失った領地をようやくとりもどし、イギリスの再度の侵寇にそなえて国論を統一し、国力を充実しなければならない時にあたっていた。
 そこにこの禍(わざわい)である。フランス王家の統率力はひじょうな試練にさらされた。
 強大な勢力をもつ国王の親族が、王国を党派争いの舞台へとひきこんでいった。
 国王発狂の知らせに、王国に生きる人々の心はふるえた。
 暗い影が王国の未来に投げかけられた。この国王の三代前のフランス王フィリップ六世の時代からの英仏戦争の継続中であったからである。
 以下時代を遡って眺めてみよう。




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