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『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
11 狂王シャルル六世治下のフランス
――英仏百年戦争――
2 受け身のフランス
イギリスとの戦いは、どう考えても割りのあわない仕事であった。エドワード三世の軍勢はフランドル、ノルマンディー、ブルターニュの諸地方を荒らしまわっていた。
文字どおり荒らしまわっていたのだ。
エドワードの軍勢は数的にも劣勢であり、また強固に防備をほどこした城塞や町を攻めとるのに必要な道具や資財をもっていなかった。 だいいち、エドワードには、どこかある地域を占領しようという気などなかったらしいのである。
もともと、エドワードが、三代前のフランス王フィリップ六世に対し、フランス王位継承権を楯に宣戦を布告したのは、イギリス産の羊毛輸出地としてのフランドルと、イギリスが輸入するぶどう酒の主要な取引先であったギュイエンヌに対する要求があってのことだった。
エドワードのねらいは、フランスを荒らしまわって、フランス王を困らせ、最後にはギュイエンヌのイギリス領有を認めさせようとするところにあったのではないかと考えられるのである。こういう敵は、まったく始末にこまる。敵はべつに短期決戦をのぞんではいないのだ。
エドワードは、フランドルにおいて、ガンの毛織物商アルテフェルデ家を先頭とする反フランドル伯の党派と組んで、騒乱を助長した。
また、ブルターニュ侯家の相続争いを利用して、ブルターニュにおける反フランス勢力を暖助し、王太子のエドワード、あだなは「黒太子」にギュイエンヌからガロンヌ川流域を荒らしまわらせた。
フランス側としても、この敵の挑発を黙視していたわけではない。
フィリップ六世もジャン二世も、ともかくも集めうるかぎりの兵力を集めて、敵と対決しようとはしたのである。
一三四六年の夏、エドワードが、自身、一万足らずの兵をひきいてノルマンディーに入ったとき、その最初の機会がきた。エドワードは、カーンを制圧して東に向い、ほとんどパリまじかにまでせまった。
だが、パリ周辺に集結したフィリップ六世の軍勢との対決を嫌い、セーヌ川を渡って北に転じ、ピカルディーをぬけて、ブーローニュの海岸をめざした。
ところが、ソンム川を越えたところで、あとを追ったかたちのフランス王軍につかまったのである。
八月の末、両軍はクレシーの原で会戦した。
したがって、いわゆる「クレシーの戦い」は、イギリス側の予定表にはなかった事件だったのである。
二度目の機会は一三五六年夏にきた。この夏の八月、エドワード黒太子はギュイエンヌ地方から北上し、ロワール川流域を荒らした。
フィリップ六世を継いだジャン二世は、ボルドーへの帰途についた黒太子の軍を、ポワナエ近傍でつかまえ、九月のなかば、合戦が行なわれた。
この場合も、黒太子は、なにしろ掠奪品をたんまりかかえこんでいたことであったし、できるならばフランス王軍との衝突を避けようと、最後の最後まで画策を続けたという。
この二度の会戦に、フランス方は惨憺(さんたん)たる敗北を喫した。決戦を挑んだほうが敗けたのである。
イギリス軍勝利の理由は、騎士軍と歩兵軍との緊蜜な協力体制にあった。
馬をおりた騎士と槍兵の混成部隊を三段にかまえ、側面を長弓の弓隊がかためるというイギリス側の陣立ては、重装騎士を主力として構成されたフランスの封建騎士軍にくらべると、戦術上、一日の長があった。
伝統の戦法にしたがって、単身まっしぐらに突き進む騎馬のフランス騎士に対し、側面から弓隊が矢を射かける。
それをなんとかきりぬけて敵陣に突入すれば、集団行動を訓練された歩兵隊が馬上の騎士をとりかこみ、槍でつきおとし、重装備だから身動き困難なところを、あるいは殺し、あるいは捕虜にする。これが戦闘の、いわば原型であった。
敵の騎士は馬からおりているのだから、こちらも馬からおりようというていどの戦術上のくふうしか、フランス軍にはできなかったのである。
ポワチエの戦いのさい、馬からおりた重装備の騎士は、一キロメートル以上もの距離を歩かなければならなかった。
イギリスの軍隊は、国王によって編成され、装備され、給与を支払われる軍隊であった。イギリスの国王は、はやくから、封建領主の手もとから軍事力を吸いあげ、王軍を常備軍として維持する方向に向かっていたのである。
これは金のかかる仕事であった。
フランスとの戦争をひらくにさいして、エドワード三世は、装備に金のかかる騎士軍のかわりに歩兵隊を増設し、これに槍あるいは長弓を装備させることによって、財政上の困難を解決し、あわせて戦術上の優位をも期待しえたのである。
これに対し、フランスの王は、いまだに封建領主層の軍役奉仕に依存する軍隊をしか、編成しえなかった。
国王の統帥権は、おのずから限界づけられていた。
指揮官たちは、それぞれのひきいる騎士たちを中心にものを考える。
その騎士たちの装備にははなはだ金がかかり、騎士隊を常時維持することは、封建領主にとって大きな負担となる。
したがって、通例、騎土たちは戦闘の行なわれる直前に召集され、しかも、ながくひきとめておくことはできなかった。
都市その他、国王直属の自治体の供給する少数の歩兵隊がいたし、また、ジェノバ人傭兵の弩(いしゆみ)隊もいたのだが、しかし、指揮官たちは、伝統の戦法、騎馬の重装騎士による正面からの突撃に固執した。
また、階層的偏見から、傭兵たちと協働することをきらい、けっきょく槍隊や弩隊は、有効な戦力とはなりえなかったのである。
ポワチエの戦いに捕虜となったジャン二世が、捕われの身でロンドンに没した一三六四年、シャルル五世が登位した。シャルルは、事実上、捕囚の王の名代として、ポワチエの敗戦以後すでにフランスの国政を掌握する地位にあった。彼は一三五八年、パリに起こったエチエンヌ・マルセルの反乱、およびひきつづいて起こったジャクリーの農民一揆(いっき)を鎮圧(ちんあつ)し、一三六〇年、イギリスとのあいたにブレチニー・カレー条約をむすんで、敗勢のフランスに一時の平和をもたらし、ちゃくちゃくと国政改革の歩を進めていたのである。
シャルル五世は、国内治安の回復と軍制の改革に努力を集中した。
敗戦の国内には野武士の群れが横行し、黒死病のため疲弊した農村に、さらに追い討ちをかけていた。
平和の到来は、職を失った傭兵たちの野盗化をいっそう促進した。
シャルルは、ここに、有能な将官ベルトラン・デュ・ゲクランを登用し、その指揮権下に王の常備軍を編成し、野武士の群れをこれに吸収し、あわせて治安の回復をはかったのである。
そのために必要な金を調達するために、かつてこの世紀初頭、フィリップ四世によって設置された行政組織、徴税組織の建て直しをはかり、あるていどそれに成功したのである。
シャルル五世は有為の王であった。
小柄でむしろ貧相なからだつきの彼は、小部屋にすわって情勢を分析し、判断し、命令を下すのであった。
その点、武勲の華やかさに自制を失うことの多かった父王ジャンと好対照であり、むしろ彼は後年のルイ十一世に似ている。
王軍司令長官デュ・ゲクランのひきいる精鋭の軍隊は、一二六九年に再開された戦争に攻勢をとり、ブレチュー・カレー条約でイギリスに割譲された土地をつぎつぎにとりもどしていった。
ポワツーは、一三七三年に、ブルターニュは七七年に回復され、ギュイエンヌに対する作戦も開始された。
こうして、シャルル五世が急死した一二八〇年のころには、イギリス側の占領地は、わずかにカレー、ボルドー、バイヨンヌ諸都市を残すにすぎなかったのである。
11 狂王シャルル六世治下のフランス
――英仏百年戦争――
2 受け身のフランス
イギリスとの戦いは、どう考えても割りのあわない仕事であった。エドワード三世の軍勢はフランドル、ノルマンディー、ブルターニュの諸地方を荒らしまわっていた。
文字どおり荒らしまわっていたのだ。
エドワードの軍勢は数的にも劣勢であり、また強固に防備をほどこした城塞や町を攻めとるのに必要な道具や資財をもっていなかった。 だいいち、エドワードには、どこかある地域を占領しようという気などなかったらしいのである。
もともと、エドワードが、三代前のフランス王フィリップ六世に対し、フランス王位継承権を楯に宣戦を布告したのは、イギリス産の羊毛輸出地としてのフランドルと、イギリスが輸入するぶどう酒の主要な取引先であったギュイエンヌに対する要求があってのことだった。
エドワードのねらいは、フランスを荒らしまわって、フランス王を困らせ、最後にはギュイエンヌのイギリス領有を認めさせようとするところにあったのではないかと考えられるのである。こういう敵は、まったく始末にこまる。敵はべつに短期決戦をのぞんではいないのだ。
エドワードは、フランドルにおいて、ガンの毛織物商アルテフェルデ家を先頭とする反フランドル伯の党派と組んで、騒乱を助長した。
また、ブルターニュ侯家の相続争いを利用して、ブルターニュにおける反フランス勢力を暖助し、王太子のエドワード、あだなは「黒太子」にギュイエンヌからガロンヌ川流域を荒らしまわらせた。
フランス側としても、この敵の挑発を黙視していたわけではない。
フィリップ六世もジャン二世も、ともかくも集めうるかぎりの兵力を集めて、敵と対決しようとはしたのである。
一三四六年の夏、エドワードが、自身、一万足らずの兵をひきいてノルマンディーに入ったとき、その最初の機会がきた。エドワードは、カーンを制圧して東に向い、ほとんどパリまじかにまでせまった。
だが、パリ周辺に集結したフィリップ六世の軍勢との対決を嫌い、セーヌ川を渡って北に転じ、ピカルディーをぬけて、ブーローニュの海岸をめざした。
ところが、ソンム川を越えたところで、あとを追ったかたちのフランス王軍につかまったのである。
八月の末、両軍はクレシーの原で会戦した。
したがって、いわゆる「クレシーの戦い」は、イギリス側の予定表にはなかった事件だったのである。
二度目の機会は一三五六年夏にきた。この夏の八月、エドワード黒太子はギュイエンヌ地方から北上し、ロワール川流域を荒らした。
フィリップ六世を継いだジャン二世は、ボルドーへの帰途についた黒太子の軍を、ポワナエ近傍でつかまえ、九月のなかば、合戦が行なわれた。
この場合も、黒太子は、なにしろ掠奪品をたんまりかかえこんでいたことであったし、できるならばフランス王軍との衝突を避けようと、最後の最後まで画策を続けたという。
この二度の会戦に、フランス方は惨憺(さんたん)たる敗北を喫した。決戦を挑んだほうが敗けたのである。
イギリス軍勝利の理由は、騎士軍と歩兵軍との緊蜜な協力体制にあった。
馬をおりた騎士と槍兵の混成部隊を三段にかまえ、側面を長弓の弓隊がかためるというイギリス側の陣立ては、重装騎士を主力として構成されたフランスの封建騎士軍にくらべると、戦術上、一日の長があった。
伝統の戦法にしたがって、単身まっしぐらに突き進む騎馬のフランス騎士に対し、側面から弓隊が矢を射かける。
それをなんとかきりぬけて敵陣に突入すれば、集団行動を訓練された歩兵隊が馬上の騎士をとりかこみ、槍でつきおとし、重装備だから身動き困難なところを、あるいは殺し、あるいは捕虜にする。これが戦闘の、いわば原型であった。
敵の騎士は馬からおりているのだから、こちらも馬からおりようというていどの戦術上のくふうしか、フランス軍にはできなかったのである。
ポワチエの戦いのさい、馬からおりた重装備の騎士は、一キロメートル以上もの距離を歩かなければならなかった。
イギリスの軍隊は、国王によって編成され、装備され、給与を支払われる軍隊であった。イギリスの国王は、はやくから、封建領主の手もとから軍事力を吸いあげ、王軍を常備軍として維持する方向に向かっていたのである。
これは金のかかる仕事であった。
フランスとの戦争をひらくにさいして、エドワード三世は、装備に金のかかる騎士軍のかわりに歩兵隊を増設し、これに槍あるいは長弓を装備させることによって、財政上の困難を解決し、あわせて戦術上の優位をも期待しえたのである。
これに対し、フランスの王は、いまだに封建領主層の軍役奉仕に依存する軍隊をしか、編成しえなかった。
国王の統帥権は、おのずから限界づけられていた。
指揮官たちは、それぞれのひきいる騎士たちを中心にものを考える。
その騎士たちの装備にははなはだ金がかかり、騎士隊を常時維持することは、封建領主にとって大きな負担となる。
したがって、通例、騎土たちは戦闘の行なわれる直前に召集され、しかも、ながくひきとめておくことはできなかった。
都市その他、国王直属の自治体の供給する少数の歩兵隊がいたし、また、ジェノバ人傭兵の弩(いしゆみ)隊もいたのだが、しかし、指揮官たちは、伝統の戦法、騎馬の重装騎士による正面からの突撃に固執した。
また、階層的偏見から、傭兵たちと協働することをきらい、けっきょく槍隊や弩隊は、有効な戦力とはなりえなかったのである。
ポワチエの戦いに捕虜となったジャン二世が、捕われの身でロンドンに没した一三六四年、シャルル五世が登位した。シャルルは、事実上、捕囚の王の名代として、ポワチエの敗戦以後すでにフランスの国政を掌握する地位にあった。彼は一三五八年、パリに起こったエチエンヌ・マルセルの反乱、およびひきつづいて起こったジャクリーの農民一揆(いっき)を鎮圧(ちんあつ)し、一三六〇年、イギリスとのあいたにブレチニー・カレー条約をむすんで、敗勢のフランスに一時の平和をもたらし、ちゃくちゃくと国政改革の歩を進めていたのである。
シャルル五世は、国内治安の回復と軍制の改革に努力を集中した。
敗戦の国内には野武士の群れが横行し、黒死病のため疲弊した農村に、さらに追い討ちをかけていた。
平和の到来は、職を失った傭兵たちの野盗化をいっそう促進した。
シャルルは、ここに、有能な将官ベルトラン・デュ・ゲクランを登用し、その指揮権下に王の常備軍を編成し、野武士の群れをこれに吸収し、あわせて治安の回復をはかったのである。
そのために必要な金を調達するために、かつてこの世紀初頭、フィリップ四世によって設置された行政組織、徴税組織の建て直しをはかり、あるていどそれに成功したのである。
シャルル五世は有為の王であった。
小柄でむしろ貧相なからだつきの彼は、小部屋にすわって情勢を分析し、判断し、命令を下すのであった。
その点、武勲の華やかさに自制を失うことの多かった父王ジャンと好対照であり、むしろ彼は後年のルイ十一世に似ている。
王軍司令長官デュ・ゲクランのひきいる精鋭の軍隊は、一二六九年に再開された戦争に攻勢をとり、ブレチュー・カレー条約でイギリスに割譲された土地をつぎつぎにとりもどしていった。
ポワツーは、一三七三年に、ブルターニュは七七年に回復され、ギュイエンヌに対する作戦も開始された。
こうして、シャルル五世が急死した一二八〇年のころには、イギリス側の占領地は、わずかにカレー、ボルドー、バイヨンヌ諸都市を残すにすぎなかったのである。
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