
『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
3 イギリスのピューリタン革命
2 無議会政治
チャールズ一世は一九二九年、この請願を成立させた議会を解散し、十一年間議会なしで、絶対主義の政治を行なった。
王は議会なしで収入をうるため、王の大権によって関税を徴収した。
また前王の時代、議会で廃止された「独占」にぬけ道があったのを利用して、これを許可し、収入の増加をはかった。
年収四十ポンド以上の土地を保有する自由土地保有農は、騎士の位をうけるべしという「騎士強制」が復活され、これに応じないものは免除のためと称して、多額の金をとられた。
このほか王は船舶税を港市だけでなく、内陸諸市にもおよぼし、ついにすべてのものにこれを課した。
その結果、船舶税は恒久的な収入源の性質を帯びてきたので、物議をかもした。
一六三七年、バッキンガム州の選出議員ハンプデン(一五九四~一六四三)は、一ポンドの船舶税の納入を拒否して裁判にかけられた。
この裁判は一判事のいうごとく「最大の事件の一つ」で、十二名の判事中、王側を是とするもの七名、ハンプデンを支持するもの五名という結果になり、ようやく王の言い分がとおった。
同時代の人はこれを「臣民の自由の抑圧」であるとし、「かつてに税がかけられることになれば、自由人を昔の農奴から区別するものは何だろうか」と記している。
一方、チャールズ一世は、ジェームズ一世の「主教がなければ王もない」という立場をうけつぎ、カンタベリー大主教ロード(一五七三~一六四五)をつかって、イギリス国教会を絶対主義の支柱とすることにつとめ、ピューリタンを弾圧した。
ピューリタンが重要視していた福音の伝道、説教を禁止し、牧師に国教会の儀式にしたがうことを誓約させ、前王が発行した『遊びの書』を再刊して、安息日の儀式が終わったあと、スポーツなどのリクリエーションをすすめ、ピューリタンの安息日厳守に水をさした。
チャールズ一世の専制はイギリスだけにとどまらない。
王は、長老派が優勢なスコットランドにイギリス国教会の勢力を植えつけ、絶対君主としての地位をたかめようとして一六三七年、新祈祷書をスコットランド人に強制的におしつけた。
王に忠誠なイギリス人よりも反乱に慣れていたスコットランド人は、国民盟約をむすんで、戦争の準備を整える。
チャールズ一世は戦費をうるためやむなく、一六四○年、議会を召集した。
十一年間人民のあいだにたまりにたまっていた不満がこれを機会に一度に爆発する。
反対派の新指導者となったピム(一五八四~一六四三)は、二時間にわたる大演説をこころみ、課税に承認をあたえる以前に、王が人民の苦情を処理すべきことを主張して、議会を圧倒しだ。王はわずか三週間で、この議会を解散した。
これが「短期議会」である。
その後、スコットランド軍が国境を越えて侵入してきたので、王は進退きまわり、ふたたび議会を召集せざるをえなくなった。
選挙は国民的興奮のうちに行なわれる。ピムは馬に乗って全国を遊説してまわり、ピューリタンの仲間が一人でも多く出るようはたらきかけた。
新議会は一六四〇年十一月三日召集されたが、いろいろな事件があり、五三年まで十三年間も解散されなかった。
これは「長期議会」とよばれる。
新議員をむかえた議会には、最初国王支持者が一握りしかいなかった。
議会は、まず王の側近、最大の責任者ストダフォード伯(二五九三~一六四一)に対する私権剥奪法を可決し、これを処刑した。
このとき賛成二百四、反対五十九というから、これが議会の圧倒的多数の意向であったことがわかる。
その後、大主教ロードも同じような運命にあった。
また絶対主義の機構をこわし、議会を三年に一回召集することを定め、その同意なくして解散されないことにし、議会の承認のない関税、船舶税、騎士強制などの不法を宣言した。
当時、議会の圧倒的多数がのぞんだことは、革命をおこして君主制を打倒することではなく、せいぜい絶対君主制のゆきすぎを改め、これを條正するていどのことてあった。
しかし議会内の圧倒的多数の一致も、すでに宗教問題では見られなくなっていた。
一六四〇年十二月、ロンドン市民から議会に対し、「大主教・主教などの制度が根こそぎ廃止され、神の言葉にしたがう制度が正しく樹立されるように」という「根こそぎ請願」が提出された。
議会では国教会を廃止すべきか、それとも国教会の行き過ぎを改めるだけでよいかの問題をめぐって意見の対立が大きくあらわれた。
つづいて一六四一年、ピム、オリバー・クロンウエルなどが国民に対するアピールとして「大諫議書」を議会に提出した。
大諫議書は二百四ヵ条にわたり、王の即位以来の失政と、長期議会が今までなしてきた改革の成果と、今後の目標とを述べたものである。
それは百五十九対百四十八という僅少の差で議会を通過した。
ここに長期議会の圧倒的多数の一致が終わりを告げ、国王派と議会派との分裂が明らかになったのである。
王はこの機会に、議会派弾圧を決意する。
ピムら五議員を反逆罪に問い、四百名の兵士をひきいて逮捕のため議場に乗りこんだが、「鳥は逃げてしまった」のを見いだしたにすぎなかった。
失敗した王は貴族・騎士とともに、ホワイトホールの宮殿をでて、イギリスの北の都ヨークにおもむく。
議会派はエセックス伯のもとに議会軍を組織し、王のほうもヨークから南方のメッティンガムにうつって、王旗を掲揚した。