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永井隆『この子を残して』

2016-07-26 12:18:41 | 格言・みことば
永井隆『この子を残して』中央出版社(著者は原爆で被災した医師・医学者。カトリックに改宗)

 孤児が真実孤児の道を歩こうとすれば、いやでもおうでも、耳には痛い言葉が入り、目にはつれない仕打ちがうつる。耳をふさぐことはできない、目を閉じては歩けない。痛い言葉を聞きながら、つれない仕打ちを見つめながら、ひたすらごまかしのない道を進むよりほかはない。

 誠一とカヤノがこの道を行くうちに、いつしか、恨み、憎み、ねたみ、そねみ、のろいの念を抱くようになりはしないだろうか?私が今、心の中にひそかに案じている点はこれである。そうなったら道は横に外れて地獄に至るー。

 どうかこの子たちが自分の受けた苦い杯をそのまま正直に飲み干してくれればいいが。他人の手の中の甘い杯を欲しがらねばいいが!甘い杯を飲む他人をねたまず、かえって天真らんまんにその幸福を祝ってくれればいいが!さらに進んで、甘い杯をにっこり笑って飲み干す他人とまったく同じ歓びを抱いて、この苦い杯を飲み干してくれたら、どんなにいいだろう!その境地にまで上ってくれたら私も満足する。

 己が受けた運命の苦杯を飲み干すことは、「あきらめ」という心境に至ればだれにでもできる。しかし大いなる歓びをもって苦杯を飲み干すことは、あきらめだけではできない。これは神の摂理を信じて初めて至り得る心境である。甘い杯も苦い杯もそれぞれ神の愛の摂理によって与えられた最上の賜物である。私に今苦い杯が与えられたのは、今苦い杯こそ私の真の幸福のために必要であるから、神がわざわざ与えたのである。彼に今甘い杯が与えられたのは、今の彼には甘い杯が幸福のために必要だから神がわざわざ与えたのである。神は自分の手で創造した一人一人の人間を常に真の幸福の状態に保っておこうと思って、その時その場に応じたカクテルを処方なさるのである。薬を調合なさるのである。ー私は医者だから処方の苦心をよく知っている。腹の痛む病人には苦いゲンチアナ根末を与える。病人の胃を癒すためには苦い薬を盛らねばならぬ。胃が悪いけれども苦い薬はかわいそうだから、甘いおしるこをうんと食べさせてやろう、とは医者は考えない。風邪を引いてせきが出る、たんが出るという患者には甘いゼネガシロップを与え、せきどめボンボンをなめさす。これはこの患者には今甘いものが必要なのだ。もしこの患者に、良薬は口に苦し、とかなんとか言って、せんぶりを飲ませたらどうなるだろう?病人にとっては苦い薬も甘い薬もひとしく、その時その身体にふさわしい、病気を治すための処方によるのである。病人は薬が甘いからとて喜び、医者に感謝し、薬が苦いからとて悲しんで、医者を恨むであろうか?神は全知全能だから、処方に苦心惨儂ということもあるまいが、すらすらと処方をお決めになっても、全き愛にましますから、処方の間違いは絶対にない。

 誠一という人間は、孤児として一生を送るほうが、いちばんいい人生となる。ーそう神は見透していなさるのだ。全知だから。

 カヤノという人間は孤児として一生を送るほうが、親のある子として送る一生よりも光栄に満ちるのだ。ーこう神は予知していらっしゃるから、その大いなる愛によって、孤児とならしめなさる。

 誠一よ。お前が飲むその苦い杯それは神さまの愛の処方だよ。

 カヤノよ。その杯は苦いでしょう。苦いげれども神さまのくださったお薬だよ。それを飲むと、きっと永遠の幸福があります。その苦い杯をいただいたことを神さまにありがとうしましょうね。

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