『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
8 日本の朝鮮侵攻
2 日本軍の進撃
日本軍が海をわたって攻めよせることは、もはや明らかであった。
朝鮮は南方の防備をかためて、進攻にそなえた。
また李舜臣(りしゅんしん)を登用して、水軍をひきいさせた。
しかし朝鮮の官界は、このところ党争にあけくれ、軍備をおろそかにしている。すぐれた将軍がいない。兵員が足りない。
しかも将兵をやしなうに足るだけの糧食のそなえがない。
よって各地から、あらたに人員や物資の徴発をおこなった。
にわかの徴発であったから、人心は動揺した。形だけの軍隊はととのえたものの、訓練もじゅうぶんでなく、役に立つかどうか、あやぶまれた。
あけて宣祖の二十五年(一五九二)は、明の万暦二十年、日本の文禄元年にあたる。その四月十三日(明の暦による、日本暦は十二日)、日本軍の先鋒は釜山に上陸した。
ひきいるは小西行長である。宗義智もこの第一軍にしたがっている。つづいて第二軍は加藤清正がひきいた。
進攻にさきだって行長は、釜山の鎮将(鄭撥)に書をおくって投降をもとめたが、もとより応じない。
翌朝には釜山もおちいり、かれらは城と運命をともにした。
十五日、行長の軍は北上して東莢(とうらい)を攻める。
「戦うか、道を仮(か)すか」という日本軍に対して、東莢の長官(宋象賢)は「戦死は易(やす)く、仮道は難(がた)し」とこたえた。
大いに戦ったが、半日にして城はおちた。かれは、きちんと坐したまま、刀をうけて死んだ。
さしもの日本軍も、その死守に心をうごかされた。かれの死体をおさめ、ていねいに埋葬した。
この間に、日本軍の後続部隊はぞくぞくと上陸している。めざすは京城(ソウル)である。
京城へいたるまでには、鳥嶺の険がある。
朝鮮では、ここを固守しようとしたが、行長と清正の軍は、ともに攻めて四月二十六日には、これを越えた。
朝鮮のおもだった将軍はつぎつぎに戦死し、その軍は戦うごとに潰滅した。
宣祖は、王子たちを諸道につかわし、募兵にあたらせたが、その効果のあがらぬうち、早くも日本軍は京畿道に入ろうとする。
いまや京城もあぶない。四月三十日、ついに宣祖は、京城をすてて開城へ走った。
それから三日ののち、すなわち五月三日(日本暦の五月二日)、行長と清正の軍は、あいついで京城を占領した。
釜山に上陸してから、わずかに二十日という快進撃であった。
「倭(日本)の長技は三あり。鳥銃なり、槍刀なり、また生を軽んじて突闘し、湯におもむき、火をふむも辞せざるなり。」
李朝の大官であり、宰相の任にもあった柳成龍は、このように記している。
いうまでもなく鳥銃とは、鉄砲のことである。
さて日本軍は、しばらく京城にとどまって、軍容をととのえ、軍議をひらいて、さらに北進することが決せられた。
かくて行長の第一軍は平壌をめざす。清正の第二軍は東北して威鏡道をめざした。
すでに宣祖は、開城を去って平壌へおもむいている。
これを追って、行長の軍は六月八日、大同江岸に達した。
十一日、宣祖は北辺の国境にむかった。
十五日、行長と黒田長政の軍は平壌を占領し、東北へむかった清正の軍は、六月十七日に成興に入る。
無人の野をゆくがごとく、七月の下旬には国境の会寧に達して、二王子(臨海君、順和君)をとりこにした。
それより清正の軍は豆満江をこえ、いわゆるオランカイの地を経略する。
さらに軍をかええして、朝鮮の東北境をことごとく平定した。