
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
11 項羽と劉邦
4 鴻門(こうもん)の会
さて関中を定(さだ)めた劉邦は、おもだった者を召しあつめ、法は三章のみにすると言明した。
「人を殺した者は死刑。人を傷つけた者、および盗みをなした者は、それ相当の罪とする」。
この告諭に、人民はよろこんだ。また劉邦の軍は規律が厳正であったから、いよいよ人望があがった。
ちょうど同じころ、項羽の大軍は函谷関に近づいている。
十二月、項羽の軍はようやく函谷関にたっした。関の門は、かたくとざされている。
そして劉邦がすでに咸陽にはいり、関中をさだめたと聞いて、大いに怒った。
ただちに函谷関を攻めやぶって、関中にはいり、鴻門(こうもん)に陣をとった。そのひきいる兵は四十万。
劉邦の部将たる苛無傷は、項羽が怒って沛公を攻めようとしていると聞き、人をやって、
「沛公は関中に王となり、子嬰を丞相として、珍宝をことごとく所有しようとしている」と告げさせた。
項羽におもねって、封侯をえようとしたのであった。
范増(はんぞう)もまた、沛公を撃つべしとすすめた。明日にも沛公を撃とう、と項羽も意を決した。
項羽の叔父に項伯という者がおり、かねてから張良と親しかった。
そこで項伯は、その夜、馬をはせて覇上の陣にゆき、張良と会って、ことの次第をつげた。かつ劉邦にすすめる。
「明朝はやく、みずから出むいて、将軍(項羽)にわびられるがよい」。
翌朝、劉邦は百余騎をしたがえて鴻門にいたり、項羽に会って、敵対する気持のすこしもないことを釈明した。
もはや項羽も、さっぱりとしていた。
「君の部下の曹無傷が言ってきたのだ。それがなければ、なんて疑ったりしよう」。
それから劉邦をとどめて、酒宴をひらいた。項羽と項伯とは、東面して上座についた。
范増は南面して次座についた。劉邦は北面して坐し、張良は西面して侍した。
范増はしばしば項羽に目くばせを送り、佩(お)びている玉器(ぎょくき)を上げて、決意をうながすこと、三度におよんだ。
項羽はむっつりとして応じなかった。范増は立って外にでて、項羽の従弟の項荘をよんだ。
剣舞をやって、はずみに沛公を撃ち、その場で殺してしまえ、というのであった。
剣舞がはじまった。すると気配を察して、項伯もまた剣をぬいて舞いはじめる。
つねに身をもつて劉邦をかばったから、項荘は撃つ機会がなかった。張良は、そっと立って軍門に行き、樊噲(はんかい)に会って、なかの模様をつげた。
間くなり樊噲は「そりゃ、あぶない。よし、はいっていって生死を共にしよう」。
たちまち剣を帯(お)び、盾をひっさげて軍門に入る。
衛士が立ちはだかると、樊噲は盾(たて)をそばだてて突き倒した。
そのまま中にはいって、幕を引きあけ、項羽の正面に立って、目をいからし、にらみつけた。
怒髪は天をつき、まなじりは裂けんばかりであった。
項羽はおどろいて剣の束に手をかけ、「何者だ」と叫んだ。張良が答えた。
「沛公の家来の樊噲と申す者にござります」。
「壮士じゃ。一献(こん)とらせよ」。
一升ほどはいる盃(さかずき)に、なみなみと酒がつがれた。
樊噲は立つたまま飲みほした。
「豚の屑肉をあたえよ」とて、一塊の肩肉がだされた。樊噲は盾を裏がえしに置き、その上に肩肉をのせて、剣をぬいて切って食べた。
「壮士よ、まだ飲むか」。
項羽が聞くと、樊噲は答えた。
「臣は、死をもおそれず。酒のごとき、なんぞ辞せんや。
いま沛公は、まず秦をやぶって咸陽に入り、いささかも犯すところなく、宮室を封閉して、軍を覇上にかえし、もって大王のきたるを待ちたり。労苦して功の高きこと、かくのごとし。しかも小人の説を聞き、有効の人を誅せんと欲す。これ、亡秦のつづきのみ。ひそかに大王のために惜しむものなり」。
項羽は返答にこまり、「まあ、すわれ」といった。
まもなく劉邦は、厠(かわや)に立った。
そして、そのまま樊噲らにまもられて、覇上にかえったのである。
軍営につくころをみはからって、項羽にあいさつするよう、張良にいいのこした。張良は、しばらく時間をすごした後、なかにはいった。
「沛公は、どこにおられるのか」と、項羽が聞いた。
「大王には、沛公をおとがめになるご意向の模様、されば身を脱して、ひとりにて去り、もはや軍営につくころでござりましょう」。
もはや、ことは終わったのである。范増は立ちあがって叫んだ。
「ああ、豎子(じゅし=小僧ども)、ともに謀るに足らず。項王の天下をうばう者は、かならず沛公なり。わが族は、いまに彼の虜(とりこ)とならん」。
劉邦は軍営に着くと、ただちに曹無傷を誅殺した。
11 項羽と劉邦
4 鴻門(こうもん)の会
さて関中を定(さだ)めた劉邦は、おもだった者を召しあつめ、法は三章のみにすると言明した。
「人を殺した者は死刑。人を傷つけた者、および盗みをなした者は、それ相当の罪とする」。
この告諭に、人民はよろこんだ。また劉邦の軍は規律が厳正であったから、いよいよ人望があがった。
ちょうど同じころ、項羽の大軍は函谷関に近づいている。
十二月、項羽の軍はようやく函谷関にたっした。関の門は、かたくとざされている。
そして劉邦がすでに咸陽にはいり、関中をさだめたと聞いて、大いに怒った。
ただちに函谷関を攻めやぶって、関中にはいり、鴻門(こうもん)に陣をとった。そのひきいる兵は四十万。
劉邦の部将たる苛無傷は、項羽が怒って沛公を攻めようとしていると聞き、人をやって、
「沛公は関中に王となり、子嬰を丞相として、珍宝をことごとく所有しようとしている」と告げさせた。
項羽におもねって、封侯をえようとしたのであった。
范増(はんぞう)もまた、沛公を撃つべしとすすめた。明日にも沛公を撃とう、と項羽も意を決した。
項羽の叔父に項伯という者がおり、かねてから張良と親しかった。
そこで項伯は、その夜、馬をはせて覇上の陣にゆき、張良と会って、ことの次第をつげた。かつ劉邦にすすめる。
「明朝はやく、みずから出むいて、将軍(項羽)にわびられるがよい」。
翌朝、劉邦は百余騎をしたがえて鴻門にいたり、項羽に会って、敵対する気持のすこしもないことを釈明した。
もはや項羽も、さっぱりとしていた。
「君の部下の曹無傷が言ってきたのだ。それがなければ、なんて疑ったりしよう」。
それから劉邦をとどめて、酒宴をひらいた。項羽と項伯とは、東面して上座についた。
范増は南面して次座についた。劉邦は北面して坐し、張良は西面して侍した。
范増はしばしば項羽に目くばせを送り、佩(お)びている玉器(ぎょくき)を上げて、決意をうながすこと、三度におよんだ。
項羽はむっつりとして応じなかった。范増は立って外にでて、項羽の従弟の項荘をよんだ。
剣舞をやって、はずみに沛公を撃ち、その場で殺してしまえ、というのであった。
剣舞がはじまった。すると気配を察して、項伯もまた剣をぬいて舞いはじめる。
つねに身をもつて劉邦をかばったから、項荘は撃つ機会がなかった。張良は、そっと立って軍門に行き、樊噲(はんかい)に会って、なかの模様をつげた。
間くなり樊噲は「そりゃ、あぶない。よし、はいっていって生死を共にしよう」。
たちまち剣を帯(お)び、盾をひっさげて軍門に入る。
衛士が立ちはだかると、樊噲は盾(たて)をそばだてて突き倒した。
そのまま中にはいって、幕を引きあけ、項羽の正面に立って、目をいからし、にらみつけた。
怒髪は天をつき、まなじりは裂けんばかりであった。
項羽はおどろいて剣の束に手をかけ、「何者だ」と叫んだ。張良が答えた。
「沛公の家来の樊噲と申す者にござります」。
「壮士じゃ。一献(こん)とらせよ」。
一升ほどはいる盃(さかずき)に、なみなみと酒がつがれた。
樊噲は立つたまま飲みほした。
「豚の屑肉をあたえよ」とて、一塊の肩肉がだされた。樊噲は盾を裏がえしに置き、その上に肩肉をのせて、剣をぬいて切って食べた。
「壮士よ、まだ飲むか」。
項羽が聞くと、樊噲は答えた。
「臣は、死をもおそれず。酒のごとき、なんぞ辞せんや。
いま沛公は、まず秦をやぶって咸陽に入り、いささかも犯すところなく、宮室を封閉して、軍を覇上にかえし、もって大王のきたるを待ちたり。労苦して功の高きこと、かくのごとし。しかも小人の説を聞き、有効の人を誅せんと欲す。これ、亡秦のつづきのみ。ひそかに大王のために惜しむものなり」。
項羽は返答にこまり、「まあ、すわれ」といった。
まもなく劉邦は、厠(かわや)に立った。
そして、そのまま樊噲らにまもられて、覇上にかえったのである。
軍営につくころをみはからって、項羽にあいさつするよう、張良にいいのこした。張良は、しばらく時間をすごした後、なかにはいった。
「沛公は、どこにおられるのか」と、項羽が聞いた。
「大王には、沛公をおとがめになるご意向の模様、されば身を脱して、ひとりにて去り、もはや軍営につくころでござりましょう」。
もはや、ことは終わったのである。范増は立ちあがって叫んだ。
「ああ、豎子(じゅし=小僧ども)、ともに謀るに足らず。項王の天下をうばう者は、かならず沛公なり。わが族は、いまに彼の虜(とりこ)とならん」。
劉邦は軍営に着くと、ただちに曹無傷を誅殺した。