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9-2-1 ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー

2024-04-09 08:40:36 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
2 ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー
1 仮借なきリシュリュー 

 フランスにおいて、ブルボン王家の絶対主義の基礎をすえたのは、アンリ四世(在位一五八九~一六一〇)である。
 十六世紀後半の宗教内乱を収拾して平和をもたらしたこの王は、国土再建という大事業と取りくみ、財政の整備、税制の改革、産業の保護育成、貿易や植民の奨励などに力をいれた。
 植民ではシャンプラン(一五六七頃~一六三五)がカナダを探検し、一六〇八年ケベックをひらいている。
 マクシミリアン・ド・ベテューヌ、すなわちシュリー公(一五六〇~一六四一)のようなすぐれた側近の臣がいたことも、王にとって幸いであった。
 「勤勉と禁欲の権化」のようなシュリーは、王となったアンリを助けて財政上、産業上フランスの復興につくした。
「農業と牧畜とは、フランスをやしなう二つの乳房」とは、彼の有名な言葉である。
 勇敢で良識があり、陽気で豪放で庶民的なアンリ四世は、たいへん国民から敬愛されていた。
 ところが一六一〇年五月十四日、王はパリ街頭で暗殺された。五十六歳。
 犯人ラバイヤックは、熱狂的なカトリック教徒であった。
 カトリック教徒アンリ四世は政略上、プロテスタントから改宗したわけであり、またプロテスタントに寛容な宗教政策をとったが、この点で重要なのは一五九八年、王が発した「ナントの勅令」であろう。
 そしてつぎの国王はルイ十三世である。十歳にみたぬ幼少で即位したルイ十三世(在位一六一〇~四三)の時代は、母后マリー・ド・メディシス(一五七三~一六四二)の摂政によってはじまった。
 やがてルイ十三世が成人に達したのち、これを補佐して絶対主義をかためたのは、フランス史上でも屈指の大政治家リシュリュー(一五八五~一六四二)にほかならない。
 鷲鼻(わしばな)、うすい唇、騎士ふうのあごひげと口ひげ、青白い顔の司教リシュリューは、すでに一六一四年ごろから政治家として認められていた。
 その後一時引退したのち、やがて国王側近に復活、二四年、二十九歳で最高国務会議の長、つまり宰相ともいうべき地位につき、これよりさき二二年に枢機卿(すうきけい)ともなっている。
 狩りや武芸を愛好したが、父アンリ四世にくらべると、ずっと線が細かったルイ十三世は、リシュリューの才幹を高く評価し、信任した。そして冷徹で強固な意志をもつリシュリューの政策は、王権と王国の強化に集中していた。
 彼はいう。「私の第一の目標は国王の尊厳であり、第二は王国の盛大であった。」
 王権に対立するものとしては、まずプロテスタント勢力が問題である。
 アンリ四世が宗教内乱を終わらせるために発した「ナントの勅令」は、プロテスタントに信仰の自由を認めるとともに、政治的、軍事的な安定保障地域をゆるしていた。
 ところが彼らはこうした地域、とくにラ・ロシェルという都市を拠点としつつ、フランス王国内に一種の共和国を形成するようになってきた。
 こうして一六二七年秋から約一年、ラ・ロシェル攻防戦となり海陸から攻撃されたこの都市は、最後には飢餓のため陥落した。
 戦いは他の地方でもつづいたが、二八年、ついに屈服したプロテスタントは、政治勢力を失っていった。
 つぎに王権に反抗したのは大貴族たちであり、その陰謀には王族さえも関係していた。
 「国に対する反逆罪において、慈悲心には門をとざさねばならぬ」
 と、きびしく弾圧したリシュリューを、ある政敵が評した。
 「仮借(かしゃく)なきリシュリュー、恐るべき枢機卿は、人を支配するというよりも粉砕した……。」
 ともかく貴族たちとの争いは、彼の死にいたるまでつづくのである。
 一方、すでに十五、六世紀からフランス王家と対立していたハブスブルク家は、依然としてフランスをおびやかす存在である。
 ハブスブルク家は当時、オーストリアとスペインの王家であり、また前者は神聖ローマ皇帝をかねている。
 この宿敵をおさえて、ヨーロッパ大陸におけるフランスの強大化をめざすリシュリューにとって、好機がやってきた。
 それは一六一八年にはじまっていたドイツの宗教戦争、すなわち三十年戦争に干渉することである。
 リシュリューはカトリック側のハブスブルク家に対して、プロテスタント勢力を支持し、三五年からは軍事的に介入するにいたった。
 そして最初は劣勢であったフランス軍は、やがてもりかえしてゆくが、戦いはリシュリューの死後までつづき、彼は他国からは平和の敵ともみなされた。
 リシュリューはまた中央集権化や国富の増進につとめた。
 前者では行政、司法、警察、徴税などについて大きな権限をもつ地方監察官(アンタンダン)の派遣は有名であり、後者ではリシュリューは彼なりに、商工業、貿易、植民などを保護したので、フランスの勢力はアンティーユ諸島、マダガスカル島、セネガル方面にひろがっていた。
 陸海軍の強化も、彼におうところが多い。
 しかしリシュリューは、国民一般の幸福などについては無関心であった。
 そして「泣きわめかないようにして、めんどりの羽をむしりとれ」とは、ルイ十三世の言葉であるという。
 戦費をまかなうため財政は悪化し、この対策として課税がきびしくなったことは、ブルジョワ層、とくに一般市民、農民大衆を苦しめた。
 重税だけではない。戦乱、飢饉、疾病、また軍隊の宿泊も少なからぬ負担であるうえに、軍隊の往来には掠奪、放火、暴行がともなった。
 一六二〇年代、三〇年代、都市に農村に反税闘争、大衆暴動が生じている。
 一六三九年からノルマンディーにおこった農民の反乱は、ジャン・バ・ニュ・ピエ(素足で歩くジャン)と名のる一人物が指導しているといううわさによって、「バ・ニュ・ピエ(裸足同盟)の乱」とよばれた。
 反徒は収税吏をおそい、またパリに共闘をよびかけた。
 「もしこのとき、パリ市民がよびかけに応じていたならば、この乱は専制に対する全フランスの反乱となっていたかもしれない……」とは、ある歴史家の言葉である。
 一方、リシュリューは文化上でも国家的な立場から、文芸、学問に対して保護政策をとり、今日(こんにち)まで活動しているアカデミー・フランセーズをはじめ、各種の文化機関がつくられた。
 またフランスでは一六三〇年代に、最初の新聞らしい週刊の新聞がうまれたが、リシュリューはその一つ、「ガゼッ卜」を政府の御用新聞として利用した。
 彼はみずから詩や劇を書いたともいわれるが、観劇というものが上流社会の余暇のなぐさみとなったのは、このころからである。
 一六四二年、死期が近づいたリシュリューは、最後にまたもや貴族の陰謀、すなわちサン・マール事件を迎えねばならながった。
 若く美しいサン・マール(一六二〇~四二)は、一六三八年ごろからルイ十三世の寵をえ、父親のようなリシュリューの恐ろしいライバルとなった。
 そしてサン・マールは他の貴族たちと語らい、またスペインとつうじて、宰相に対する陰謀をくわだてた。
 三十年戦争でフランスと戦っており、しかも形勢不利なスペインとしては、フランスの内紛はよろこばしい。
 陰謀を援助すれば、代償もえられるはずである。
 これではリシュリューが多年心血をそそいだハプルブルク対抗策も、くずれさるであろう。
 宰相はヨーロッパ諸国の宮廷にスパイを放っていたが、ついにスペインとの秘密協定を手にいれ、サン・マール告発の材料がととのった。
 この協定の写しを示されたルイ十三世は、寵臣に対する私情を、国家の利害のまえに屈しなければならなかった。
 一六四二年六月サン・マールは逮捕され、九月処刑された。そして若いときから偏頭痛、神経痛、痔などに苦しんでいたリシュリュー、いまでは潰瘍によってやせ細っていたリシュリューにも、四二年十二月四日、死がおとずれた。
 臨終にあたって、「あなたは敵をゆるすか」という聖職者の問いに、彼は「私には国家の敵よりほかに敵はなかった」と答えたという。





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