『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
8 フランス啓蒙思想――貴婦人たちのサロン
2 シレーの恋人たち
ボルテール(本名はフランソワ・マリー・アルーエ、一六九四~一七七八)はパリの公証人の家に生まれ、ブルジョワの出である。学生時代から早熟で、野心家、才気にあふれ、何ごとにも闘志満々といったタイプであった。
卒業後、親のあとをついで法律家になろうとしたが、どうも法律は無味乾燥でおもしろくない。つぎに外交官をめざしたが、これもものにならなかった。
身持ちも悪く、札つきの不良青年であったが、そうするうちに文筆家として出発することとなった。
しんらつな諷刺と皮肉にとんだ筆は、当時の政府に対する批判におよび、一七一七年から一時バスティーユの監獄ヘいれられたこともあった。
一七二六年、三十一歳のボルテールはすでに詩人、劇作家として名もでていた。
ところがある貴族と争って、またバスティーユヘ投獄され、数ヵ月後、イギリスに亡命ということで釈放された。妙なことから、彼は年来の希望であるイギリス行きを果たすことができ、この地に三年ほど留まることとなった。
十七世紀以来フランス文化は国際的に尊敬されているので、彼はその文人として好遇され、知識人とひろく交際することができた。
一方、イギリスはその経験論哲学、ニュートン物理学、シェークスピア、あるいは信仰上の寛容、言論の自由、議会制度にもとづくデモクラシーなどにおいて、ボルテールの思想形成に大きな影響をあたえた。
フランスに帰り、悲劇『ザイール』(一七三二)などで文名をあげていたボルテールが、一七三四年出版した『哲学書簡』(一名『イギリス便り)は、イギリスで見聞したことを書簡体にした一種の文化評論である。
そこでは宗教、哲学、文学、政治、社会など、種々の面で民主的なイギリスと、絶対主義的で不寛容なフランスとが対比されている。
ところがこの書物が当局ににらまれたこともあり、ボルテールはその追及をのがれて、パリからロレーヌ地方のシレーにうつった。
ここでシャトレー侯夫人(一七〇六~四九)の邸宅に身をよせたが、夫人は彼の情人兼親友ともいうべき存在となった。ボルテールより十二歳年下で、そのころ二十七歳のこの女性は夫と別居し、自由な生活をおくっていた。
シャトレー夫人はニュートンの書いたものを翻訳したり、ライプニッツの哲学を論ずるなど、なかなかの才媛であった。
ボルテールは彼女を「女のニュートンさん」などとよんでいる。
しかし一方では夫人はダイヤモンドを好み、衣装にこり、官能的でもあった。
ボルテールは十五年間(一七三四~四九)シレーですごすこととなったが、劇に、詩に、論文に、歴史物に縦横の筆をふるい、彼の一生において、もっとも多作な時代だったといわれる。
彼は邸宅に物理や化学の実験道具を持ちこんだり、舞台をもうけて自作の芝居を上演したりした。
シレーの邸宅で、ボルテールは金にあかせて、贅沢な生活にふけった。
大改築を加えた豪勢な屋敷のみならず、その邸内には小川あり、森あり、丘あり、谷ありというありさまで「地上の楽園」とまで評されたという。
ボルテールはすでに高い文名のうえに、父から相続した財産を、外国貿易などに投資したり、また富くじでもうけたりして、当時の文士としてはめすらしい財産をつくった。
しかしこのシレーの生活も終わるときがきた。二人の仲が冷たくなっていたとき、夫人は若い愛人に夢中になり、一七四五年その子をうんだが、それがもとで世を去ったのである。
五十六歳のボルテールは、一七五〇年七月ベルリンを訪れた。プロシア王フリードリヒ二世の招きに応じ、その宮廷につかえるためである。
この王はいわゆる啓蒙専制君主であり、フランス文化に心酔し、かねがねボルテールの名をしたっていた。
これまで両者は長らく文通しており、また二、三度ボルテールは王のもとへ行ったことがあった。
ボルテールはプロシアの宮廷に三年ほど滞在した。
彼は有名なサン・スーシー(無憂)宮にも部屋をあたえられ、側近の知的グループの一員として、豪奢(ごうしゃ)な生活をおくった。その史書、『ルイ十四世の世紀』(一七五一)は、ベルリンで発行されている。
しかし彼の自由奔放、わがままな性格は、窮屈な宮廷生活にけっきょくは適していない。
またパリにくらべると、田舎町のベルリンにも不満で、彼はドイツ人をみくびっていた。
そのうえ、利殖にたけたボルテールは、この道で裁判沙汰までおこした。王のほうでもやっかいなものを背負いこんだと、しだいに後悔する……。
こうして一七五三年、ボルテールはプロシアを去り、やがてスイスにおちついた。
そして文筆活動に専念したが、代表作の哲学小説『カンディド』(一七五~九)などの発表とともに、彼の本領、いわば当代無比のジャーナリストとしての面目も発揮される。
時事的な面では、絶対主義やカトリック教会に対する攻撃、とくに、高位の聖職者や教徒の不寛容などに向けられた。
「恥知らずをたたきつぶそう(Ecrasons I'infame)」、彼の手紙の末尾には、しばしばこう書いてあったというが(ただし用心のためか Ecr. I'inf. などと略して)、いわばこれは彼のモットーであったのであろう。