カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

7-3-4  コンキスタドレス

2023-09-12 03:50:50 | 世界史
『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
3 大航海時代
4 コンキスタドレス

 スペインの中南米征服者たちのことを「コンキスタドレス」と呼ぶ。
 コロンブスは別格として、オヘーダ、バルボア、コルテス、ピサロ……。
 いずれも血のにおいのする凄い名前で、とくに最後の二人はアズテックおよびインカ文化の破壊者として知られている。
 スペイン人が中南米に進出をはじめたのは、むろん前に書いたコロンブスの探検の結果である。
 コロンブスの第一回航海成功のニュースがつたわるのは、コロンブスがイサベル、フェルナンド夫妻王に面会して復命するよりも早かったし、第二回航海の計画はほとんどコロンブスをそっちのけにして進行する勢いであった。
 第二回航海からは事実上大西洋航路が開け、無許可で密航する船もあり、島々の探検に没頭していたコロンブスとは無関係に、現地におけるスペイン人社会の形成が開始された。
 金がたくさん出るという宣伝は、もともとコロンブスの狂信に発していた。しかし黄金に対する夢こそが、人びとを未知の世界にひきつけたのだ。
 海を渡ったスペイン人たちを統治する立場のコロンブスは、金については自分で責任をとれないので、インディアンを酷使して採鉱させたり農耕をやらせたりし、さらにインディアンを奴隷として売り出す方向をとりはじめた。
 逃げるインディアンはものすごい猟犬などで殺された。
 スペイン人たちが期待した金は出なかったので、それをおぎなう農業生産に必要な土地と労働力は、コロンブスがスペイン人たちに分配した。これは多くの不公平を生み、不満と争いのたねになった。

 コロンブスがイタリア人だったこともあって、スペイン本国ではコロンブス追い落としの策謀が行なわれ、原住民虐待の疑いで取り調べを受けるため、コロンブスは一四九六年三月帰国させられ、ここに彼の第二回航海は終了したのである。第二回航海には「十二人の使徒」とよばれるカトリックの僧侶が随行した。

 キリスト教は表向き奴隷を禁じていた。
 コロンブスが呼び返されたのは、その意味ではもっともなことであった。
 そしてキリスト教は新世界にひろがった。だがその実態には、必ずしも宗教的に正常といえないものがあった。
 僧侶たちのなかには、インディアンにわからぬラテン語で説教をし、並べておいてバケツで水をぶっかけて「洗礼」をほどこし、とにかく屋根に十字架のついた小屋を建てさせ、キリスト教がひろまった、という報告を、本国に書き送るものさえいたという。
 スペイン人にとって都合の悪いインディアンは宗教裁判で殺し、教化するために働かせると称して、奴隷労働をやらせるということも、僧侶の役割である場合があった。
 スペイン人のはいりこんだ島のインディアン人口は激減した。
 メキシコは一五二一年の人口二千五百万、三十年後に六百万。
 ハイティ島は発見当時約四十万、一五一四年一万四干という数字がある。
 僧侶ラス・カサス(一四七四~一五六六)はこの事実を人間的不正行為として記述した最初のヨーロッパ人である。
 コンキスクドレスとは悪名高い総督たちばかりでなく、物欲と野性をむきだしにする人間の恥部に与えられた名といってよいであろう。
 インディアンの文明水準は新石器時代よりすこし上等という程度で、彼らはスペイン人の要求するような労働に馴(な)れず、生き残ることが困難だったともいう。
 労働人口の激減はスペイン人社会にとっても困ったことであった。
 ここにアフリカ大陸からの黒人奴隷の大規模な輸入がはじまる。
 ラス・カサスは書きのこした。
 「聖職者ラス・カサスが、アフリカ人を西インド(中南米)に輸入するようにすすめた最初の人物である。
 彼はそのとき自分が何をしたか知らなかった。……彼は悔いた。」
 中南米の大陸に手をのばした最初のコンキスタドール(征服者)はオヘーダ(一四六五?~一五一五)である。
 コロンブスの第二回探検に参加し、十五世紀末から十六世紀はじめ、ベネズエラ、コロンビアに足跡を残した。
 ポンセ・デ・レオン(一四六〇ごろ~一五二一)は、プエルト・リコを探検したのち、老人に生命力を与えて若返らせる「不死の泉」を求めているうちに、あざやかな花が咲きみだれるフロリダ(花咲く土地)を発見し、その奥地で土人の毒矢にあたって死んだ。
 そしてパナマに近いダリエンの総督となったバルボア(一四七五~一五一七)は一五二二年九月末高地に出て、はじめて太平洋を望むことができた。
 砂浜に出たバルボアは、みずから「南海」と命名したこの海(太平洋とはのちのマゼランによって命名された)に武装のままはいり、剣をかざして誇らかに、スペイン王の領有を宣言する……。
 あるいはキューバを征服したベラスケス、ユカタン半島を探検し、独特の神殿文化をもつマヤ文明を発見したコルドバ、そしてそこから山脈をこしたむこうの高原に、黄金の豊かな国があると知られたとき、エルナン・コルテス(一四八五~一五四七)が登場する。
 一五一八年からメキシコ征服にとりかかったコルテスは、詭計(きけい)と殺戮(さくりつ)とをもって、ついに一五二一年、う世界でもっとも美しい都市」テノチティトラン(メキシコ・シティー)を陥落させ、青銅器文明の豊かなアズテック帝国を滅亡させ、同時に莫大な財宝を手に入れた。
 一方、一五三二年、フランシスコ・ピサロ(一四七五~一五四一)はペルーのインカ帝国という、古代エジプトと同じ程度の文明をもった国を滅ぼした。
 コルテスの場合も、ピサロのときも、いずれもわずかな兵力と、原住民が知らなかった「馬」と「猛犬」と、大砲、鉄砲の「火器」による戦果であった。
 ペルーのリマ市にはピサロの銅像がある。
 残虐な殺し屋としてしか記憶されないピサロは、一面からみれば功労者であった。
 彼はバルボアの子分で、一五二四年ごろからインカ帝国の黄金を手に入れようという情熱にとりつかれた。
 一五二七年には帝国の一部に達し、その大国であることにおどろいている。
 スペインに帰ったピサロは、王室に報告して軍費を獲得し、パナマに帰って三百の兵力を用意し、一五三二年はじめに出発した。
 インカの皇帝アタワルパは、ピサロの接近を首都カハマルカにあって知っていた。
 しかし帝位継承の争いに勝ったばかりの状態だったので、ピサロとの戦いをためらった。
 ピサロの軍は一五三二年十一月カハマルカにはいって、皇帝に使者を送り、キリスト教をひろめるための平和使節だから協力してほしいといつわった。
 これに対して皇帝の一行は答礼にきた。
 そのときピサロからキリスト教を信ずるように強要された皇帝が、立腹して聖書を投げすてると、合図とともにスペイン人たちがおそいかかり、血なまぐさい虐殺のうちに、ピサロはみずからアタワルパをとらえた。
 そしてこの征服者は皇帝の身代金と称して全国から金銀を集めさせ、用がすむとアタワルパを殺した。
 中心を失ったインカ帝国はあっさりと崩壊した。
 皇帝の権力が強すぎたためと説明されるが、六百万人といわれたインカの住民が、わずか三百のスペイン軍に完全に制圧されたという事実を、どう私たちは考えたらよいのだろう。
 マジェランは銃や砲をもちながら、土民の投げ槍や毒矢の雨にさらされて虐殺され、死体の行方さえわからなかったではないか。
 整然と組織された温和なインカ帝国の植物的な生活意識と黄金が、ピサロを冒険に誘いこんだということになるのか。
 そのピサロも仲間のスペイン人に殺された。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。