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『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
12 恩恵と威圧の世
5 世は金次第
清朝は、中国の民心を安定させるためには、まず明末の三餉をやめ、貧民の救済にあたり、ときには免税もおこない、人丁にかける税の総額を固定して、地丁銀の制を実施した。
このような政策をとりながらも、順治帝の代にはなお苦しかった財政が、康煕の時代からのちは、しだいに好転し、康熈末年には、六百万両の蓄積ができたという。
雍正帝の代は、わずか十三年にすぎないが、その前半には、六千万両の蓄積ができ、その後ズンガルヘの外征によって、なかばを支出したが、乾隆の初期には、なお二千四百万両の在庫があったと伝えられる。
乾隆帝の代は、国庫の蓄積の増減がはげしく、回部(ウイグル)の平定に三干万両の支出をした結果、蓄積わずか七十万両ばかりになった時期がある。
しかし、その後ふたたび増加し、四十一年の金川平定には七十万両を支出しながら、なお六千万両の余裕があり、さらに四十六年(一七八一)には七千八百万両に増加したという。だが、その蓄積も四回にわたる免税や、帝の六回にわたる南方巡幸などにより、乾隆末年には、ほとんど国庫の蓄積を消費してしまったといわれる。
国庫の蓄積に増減ありとはいえ、ともかく蓄積がつづいたことは、記録のしめすところである。
しかも、赤字財政をうつたえる動きはない。しかし、そこには清朝弊政の一つの要素がかくされていた。
中国の王朝では、秦漢のむかしから、穀物や金銭を自発的におさめる方法によって、官職そのほかの恩典を手にいれる道があり、それが一つの財政収入源とされていた。
この制度は、のちになるほどさかんとなり、明代には通例となる始末であった。
一般にこれを、捐納(えんのう・捐輪・捐官などという。(捐=捨てる、放棄する、与えるの意、例=義捐金)
まさにそれは「世のなか、すべて金(かね)しだい」という一面を、政治的に利用したものである。
免税などをおこない、民心の安定をはかる善政をおこなったという清朝は、この捐納の実施において、歴代の王朝にまさるともおとらない。
その施行は、順治のころ、すでに認められるが、記録の上では康熈帝以後さかんとなり、清末にいたるほど、はなはだしさを加えている。
康煕初期の例は、まず三藩の乱の当時にみられる。
そのころ湖広・福建・貴州・雲南など、乱を鎮定するために清軍が活動した地域で、捐納をおこなったことは、現地における軍事費の調達をねらったものにほかならない。
この期における捐納について、「収入わずかに二百万両、捐納による知県(県の長官)就任は五百余人」などと伝えているが、その数はかならずしも信用できない。
なぜならば、異民族なるがゆえに、ことさら善政を強調する清朝は、悪政ともいうべき捐納の施行を、つとめてあいまいにしようとする意図が見うけられるためである。
歴代の王朝にみられた弊政を、清朝もまた踏襲している事実を、公然とはしたくなかったものといえよう。
明末の三餉にかわって、清朝がおこなった軍費の調達法は、捐納であった。
捐納の収入わずか二百万両、などというが、決して少額ではない。
またそれが、効果すくなしというのなら、その後において、軍費の調達のみならず、河川の修理から流民の救済、また城壁の修理や建築工事にいたるまで、そのつど捐納をおこなうはずはない。
しかも当時の中国では、官吏の志願者がきわめて多い。
そこには、想像を絶する試験地獄がひかえている。
まず学校に入るための入学試験、卒業したら郷里の任用試験、さらに中央の試験と、いくつもの段階の試験に合格しなければ、官吏としての将来は約束されない。
ようやく資格をとったときには、五十歳をすぎていたという例が、すくなくない。
「郷里の試験に合格したものならば、千五百両だせば、知県になれる」ということになれば、金のある者が、その方法を選ばぬはずはない。
捐納は出世欲にとりつかれたものがある限り、必要悪として便利な財政の収入策であった。
民心の安定をうたう減税と、出世欲にとりつかれたものを利用する捐納。
そこに、清初の国庫に余裕をうんだ一つの鍵がある、といわざるをえないであろう。
捐納による官吏の登用と昇進も、欠員の多い場合には、支障がすくなかった。
しかし欠員がすくなければ、みにくい争いを生みやすい。
それだけではない。試験の合格者でも同じであるが、捐納で任官した者が有能とは限らないのである。
むしろ正規の試験をこえた者より無能者が多かった。その弊害を伝える記載はすくなくない。
悪弊は悪弊をうみ、それが清朝の屋台骨をゆるがす一つの要素となったとしても、ふしぎではないであろう。
専制王朝と官僚国家の矛盾はつきないのである。
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