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7-10-2 女ごころ

2023-11-01 20:03:10 | 世界史


『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
10 悲劇の女王メアリー・スチュアート
2 女ごころ

 当時スコットランドでは、ジョン・ノックス(一五〇五ごろ―~七二)を中心として、カルバン主義の宗教改革が行なわれていた。
 野蛮と狂信と憎悪とが渦まくなかへ、カトリック教徒でフランスじこみの優雅な女王が帰ってきたのだ。
 若さと美しさのあふれた女王に対して、貧しく狹く未開の国……。
 しかし彼女の関心は当代の大問題よりも身近な楽しみにあったし、国民の宗教に干渉するつもりはなかった。
 フランス好みの宮廷生活のなかで、この陽気で気品に満ち、感受性に富み、人びとを魅了してやまない女王は、数年のあいだ、どうやら無事に王国の統治につくした。
 一方、イギリスとスコットランドに、いずれも夫をもたぬ二人の女王が存在することとなった。
 一五五八年からのエリザベスの治世を歓迎した国民に、失望があったとすれば、それはかずかずの候補者が――他国の王族、名門の貴族などが――あったにもかかわらず、女王が結婚にふみきらないことであった。
 そしてこの二人の女王の仲は表面的には悪くはない。
 メアリーは九歳ほど年長のエリザベスを姉と呼んで、たがいに文通し、情愛と誠実とを約束する言葉を取りかわしているし、エリザベスがメアリーの小さな肖像を金のくさりで身につけていたこともあった。
 しかしそれらは、二人のこえられない溝をおおいかくしているだけかもしれない。
 イギリスとスコットランドとのひさしい対立、メアリーがエリザベスに代わるべき王位継承者であり、エリザベスに反抗するカトリック教徒がメアリーをいただこうとしていること――二人のあいだには、こうした政治的、宗教的な対立のうえに、女の争いが、ルネサンス時代の最高の教養をうけた女の争いがはじまっていた。
 かってスコットランドの大使がロンドンを訪れたとき、エリザベスは彼のまえでリュートをひき、数ヵ国語をあやつり、踊ってみせ、金髪を見せびらかし、メアリーとの比較を求めた。
 大使はエリザベスはイギリス第一の美人で、メアリーはスコットランド第一の美人であると答えて切りぬけた。
 エリザベスはなおも二人のうち、どちらが身長が高いかと聞いた。
 これは明らかにメアリーの方である。しかしエリザベスは負けずに言ったという。
 「では、あの人は高すぎるわけね。」
 またエリザベスはスパイから、メアリーがヨーロッパの有力な王家と縁をむすびそうだと聞くと、つとめてこれを妨害する一方、自分が結婚しようかと思ったことがある貴族を、メアリーの夫にすすめたりした。
 けっきょくメアリーはこのお下がりを辞退したのち、一五六五年、スコットランドの貴族で、いとこのダーンリー卿(きょう)ヘンリー・ステュアート(一五四五~六七)を選んだ。彼は母方の家系からエリザベス女王のあと、イギリス王位の継承権をもっていた。
 この点、メアリーは自分の継承権をさらに強化しようと考えたらしい。
 女王は彼にほれこんだ。
 「これまで会った男性のなかで、もっとも気持ちがよく、もっともみごとに均整がとれた若者……」
 フランソワ二世で十分に満たされず、その死後孤独の淋(さび)しさをかこっていたメアリーのなかの「女性」は、この三歳年下で、十九歳の青年に一人の「男性」を見出したのであろう。
 しかし失敗であった。
 ダーンリーは意志も性格もよわく、むら気で、女性関係もだらしなく、国務よりも飲み友だちと遊ぶことに適したような人柄であった。
 「女の生涯において、それほどの愛に値しない男に、早まって身を捧げてしまったことほど深刻な屈辱はない」と、ある伝記作家は書いている。
 こうしてメアリーはダーンリーに対して、人間的な幻滅と政治上の失望とを同時に抱かざるをえなかった。
 しかも彼は能力もないのに、女王の「配偶者」の地位をこえて、王であろうとさえした。ふたたび訪れたわびしさを忘れるために、メアリーの心は新しい対象に傾いた。
 ある他国の外交官の従者で、音楽にも長じたイタリア人リッチョ(一五三三ごろ~六六)である。

 このリッチョの素姓ははっきりしないが、さるブルジョワの出で、一五六一年スコットランドにやってきた。
 メアリーは彼をいわば秘書の一人にしたが、彼の魅力ある人柄は、これまで女王の周囲に見られなかった「生の楽しさ」を発散させた。
 しかしメアリーにとって幸(さち)多い生活とは、つねに短いものであろうか。
 メアリーのリッチョに対する寵愛(ちょうあい)を憎んだ貴族たちは、ダーンリーをそそのかして仲間にひきいれ、この寵臣暗殺を決行する。
 ダーンリーは妻とリッチョとの情事を信じ、嫉妬にもかられていたのである。
 こうして一五六六年三月九日の夕刻、女王たちと食事をともにしていたリッチョを、一団の貴族たちがおそった。
 そして泣きわめき、死にものぐるいで抵抗する哀れな男を、暗殺者たちはくりかえし突きまくった。
 メアリーの忠実な音楽師の死体は、五十六という傷口から血を吹きだしながら、窓から中庭へ投げすてられた。
 このあいだメアリーは、ダーンリーの力強い腕に抱きすくめられたままであった。
 しかし彼女が耳にしたリッチョ断末魔の叫び声は、夫に対する消しがたい憎悪の念を彼女にうえつけずにはおかなかった。
 それから三ヵ月後、メアリーは王子、のちのジェームズ六世(在位一五六七~一六二五)を生んだ。
 姦通(かんつう)による子という噂もたったが、リッチョがメアリーの情人だったという確証はないし、ダーンリーも貴族たちもこれを正統の王子と認めた。
 一方、この王子出産の報は、ただちにエリザベスのもとまで知らされた。
 グリニジの居城の舞踏会で、これを聞いた独身の女王は自己抑制の達人といわれ、感情をかくす術に長じていたが、さすがに一室に退いた。
 「母」であるという一事、いかにしてもメアリーに及びえない一事のゆえに、彼女は興奮を静めえなかったのであろう。
 エリザベスは椅子に身を落として、鳴咽(おえつ)した。
 「スコットランドの女王は王子を生んだというのに、私にはそのあてもない。私はただの枯れ枝だ……」
 しかし翌朝、いまはエリザベスは感情をおしかくし、晴れやかな微笑をつくってスコットランドからの使者に会い、メアリーによせる心からの祝いの言葉を託する。

 メアリーは幸福なのであろうか。
 一五六六年夏ごろ、彼女が夫と食事や寝床をともにすることは少なくなったし、ダーンリーは自暴自棄、孤独と不安の念に悩まされ、妻とのあいだは日ましに疎遠となっていった。
 またダーンリーのあさはかな行動は、貴族たちの支持を失い、離婚説、いや、逮捕説も出るありさまだった。
 そしてメアリーの心は失に対する憎しみや軽蔑から、信頼しうるただ一人の男性にうつりつつあった。
 その男、三十歳くらいのボズウェル伯ジェームズ・ヘバーン(一五三六ごろ―~七八)はスコットランドの名家の出、教養があるにもかかわらず、荒々しく、大胆不敵、一種の無法者の頼もしさをもち、すでに妻帯していた。
 衝動的、本能的で、身持ちはよくないが、実行力に富み、まことに男性的である。
 子供にすぎなかったフランソワ二世、弱々しいダーンリーにくらべて、なんという相違であろうか。
 ここに彼女が書いたと伝えられる一連の手紙や詩が残っている。
 これらは、彼女がフランソワ二世からもらい、そしてボズウェルに贈った銀の小箱のなかに秘められており、のちに反メアリーの貴族たちの手に渡って、彼女を不利にしたものである。
 自筆か? 偽作か?
 それはともかく、そこには名誉を、権勢を、身内を、友を、世間を、すべてをすてて、ひたすらに切々たる情が訴えつづけられているではないか……。
 「あの方(かた)のただ一人の女性でありたい。」




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