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3-2 殷より周へ

2018-05-17 01:58:36 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

2 殷より周へ

1 殷王の権力

 殷王のしごとは、まず巫(ふ=神がかり)や卜(ぼく=うらない)によって神意をたずね、これにしたがって祭祀(さいし)や政治をおこなうことであった。
 はじめのころ、殷王は巫師(ふし)の長であり、その下に卜師(ぼくし)があった。
 ところが殷代の末期になると、王みずから卜(ぼく)をおこなうようになる。
 つまり王は、巫と卜とを独裁するにいたったのであった。
 神としては、まず祖先神をまつった。ほかに山や川などの自然神もまつっている。
 こうした自然神は、もと各地の人びとのあいだで、それぞれ最高神として、まつられていたものである。
 それらの地方が、殷の支配に服すると、その祭祀までが殷王によって主宰されるにいたった。
 すなわち殷王は、巫卜(ふぼく)と祭祀の権限を独占することによって、支配力を強化したのであった。
 王の下では、一族の王子たちが行政や軍事をつかさどり、重要な地方を経営した。
 さらに婚姻によって、妻の実家とむすび、王朝に奉仕する義務を負わせた。
 王子の妻たちは、女ながら、ときに数千の軍隊をひきいた。
 このように殷王の一族は、他の氏族との結びつきによって、きわめて強い支配の集団をかたちづくっていたのである。
 しかも殷代の末期になると、政治や軍事の実権も、また王の手ににぎられた。
 おわりの四代の王(武乙・文丁・帝乙・帝辛)が、兄弟相続をすてて、父子相続をおこなっているのも、王権の強化をしめすものといえるであろう。
 武乙(ぶいつ)は無道であった。
 人形をつくって、これを天神と呼び、神と博奕(すごろく)をするといって、家来に天神の代理をさせて、たたかった。
 天神が負けると、それを辱(はずか)しめた。
 また皮袋をつくって血を入れ、たかくかかげて、これを射て「天を射る」といったりした。
 このように、天をあなどった武乙は、狩りをしているときに、雷にうたれて死んだ。
 武乙から一代おいて立った帝乙(ていいつ)は、みずから天上の神をあらわす「帝」を名のった。
 この「帝」こそは、殷の国にとって最高神とされていたものなのである。
 ここにおいて王権は、絶頂に達した。帝乙の子が、帝辛(しん)である。すなわち紂(ちゅう)王である。
 殷(いん)の記録(甲骨文)が伝える帝辛(紂)は`すこぶる祭祀に執心であった。
 祖先のまつりも秩序ただしくおこなわれている。
 さらに帝辛は、東方への大遠征をこころみた。
 殷の国のまわりには、さまざまの異民族がいた。
 そのうち東方にいたものは、夷方(いほう)または東夷(とうい)とよばれた。帝辛は、この夷方をはじめ、東夷の諸族を討ったのである。
 みずから大兵をひきい、東は山東の奥地から、南は淮水(わいすい)のほとりに及ぶ。
 ときには狩猟をたのしみながら、前後まる一年をついやした。殷の威勢は、大いに東方へとどろいた。
 しかし、これほどの大規模な遠征によって、国力の消耗もはげしかったことであろう。
 しかも帝辛が心を東方にうばわれているあいだに、西方にもおそるべき勢力がおこりつつあった。
 それが「周」である。


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