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『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
2 曹氏の一家
1 曹操(そうそう)の祖父
曹操(そうそう)は宦官(かんがん)の孫であった。
むかし司馬遷(せん)は宮刑(去勢の刑)に処せられて宦官になり、発憤(はっぷん)して『史記』をかきあげた。
曹操はもちろん五体そろって、りっぱな男性であったが、宦官の孫であったということは、その成長のうえにいろいろな影響をおよぼしたにちがいない。
曹操は儒教をにくんだ。とりわけ後漢の時代には一般的な風潮となっていた儒教の偽善性をにくんだ。
また後漢時代にできあがりつつあった門閥尊重の気風にも抵抗した。
そのころの中国をおおっていた伝統的権威にうたがいをもち、これを打破しようという気がまえをもって行動したのである。
それには、かれの生まれついての性格もあったにちがいないが、またかれをとりまく環境が、そうさせたのであろう。
曹操の祖父にあたる曹騰(そうとう)は、宦官の大立者であった。
おさないころから宮中にいたというから、たぶん父親が宦官にしたてたのであろう。
こういうことは、しばしばおこなわれたものであったらしい。
ところで曹騰が、ながい宮廷生活をかえりみたとき、いちばん印象ふかかったのは、桓帝の擁立事件であったろう。
建康元年(一四四)、曹騰が学友としてつかえた順帝が死んだ。
帝の死後、八歳の質(しつ)帝が即位し、順帝の皇后の兄の梁冀(りょうき)が外戚として政治の実権をにぎった。
しかし質帝は利口な少年だったので、そんな梁冀を「跋扈(ばっこ)将軍」とよんだ。
おこった冀は皇帝に毒入りの餅(もち)をたべさせて、ころしてしまった。
そのあとにだれをたてるかという議論がおこったとき、清河王が候補になった。
人望もあり、行動はけじめ正しく、そして宦官ぎらいの人である。
このうわさを聞いて曹騰は、梁冀をたきつけ、ちょうどそのころ、冀のもうひとりの妹と婚約がととのっていた蠡吾(れいご)侯を即位させてしまった。
それが桓帝(かんてい)で、十五歳であった。
桓帝は、これといってとりえのない、平凡な人物であった。
その治世二十年のあいだに、後漢はひたすら滅亡への道をあゆんでゆく。
はじめは外戚たる梁冀(りょうき)の専横であった。
あとは宦官の横暴がつづいた。梁氏をたおすために、皇帝が宦官の力を利用したからである。こうした状態をすくうために、いわゆる清流の士たちがおこした運動も、党錮(とうこ)の獄によってつぶされてしまう。
まさしく梁冀や、曹騰(そうとう)らの宦官がおかしたあやまちは大きかった。
さて後漢の時代には、宦官が養子をとることがみとめられていた。
そこで曹騰も、嵩(すう)を養子にする。この曹嵩の子として、曹操は生まれた。
桓帝の永寿元年(一五五)のことであった。祖父の曹騰は、いつ死んだか、わからない。
そのあと、霊帝のとき、朝廷が売官(ばいかん=官職を金で売る)をおこなうと、曹嵩は一億万銭を出して、最高の官職である大尉(たいい)の官を買った。
米一石(日本の一斗=14キロ)が約百銭といわれていた時代である。
それほどの富も、おそらくは曹騰が、宦官としての地位を利用して、えていたものであろう。
2 曹氏の一家
1 曹操(そうそう)の祖父
曹操(そうそう)は宦官(かんがん)の孫であった。
むかし司馬遷(せん)は宮刑(去勢の刑)に処せられて宦官になり、発憤(はっぷん)して『史記』をかきあげた。
曹操はもちろん五体そろって、りっぱな男性であったが、宦官の孫であったということは、その成長のうえにいろいろな影響をおよぼしたにちがいない。
曹操は儒教をにくんだ。とりわけ後漢の時代には一般的な風潮となっていた儒教の偽善性をにくんだ。
また後漢時代にできあがりつつあった門閥尊重の気風にも抵抗した。
そのころの中国をおおっていた伝統的権威にうたがいをもち、これを打破しようという気がまえをもって行動したのである。
それには、かれの生まれついての性格もあったにちがいないが、またかれをとりまく環境が、そうさせたのであろう。
曹操の祖父にあたる曹騰(そうとう)は、宦官の大立者であった。
おさないころから宮中にいたというから、たぶん父親が宦官にしたてたのであろう。
こういうことは、しばしばおこなわれたものであったらしい。
ところで曹騰が、ながい宮廷生活をかえりみたとき、いちばん印象ふかかったのは、桓帝の擁立事件であったろう。
建康元年(一四四)、曹騰が学友としてつかえた順帝が死んだ。
帝の死後、八歳の質(しつ)帝が即位し、順帝の皇后の兄の梁冀(りょうき)が外戚として政治の実権をにぎった。
しかし質帝は利口な少年だったので、そんな梁冀を「跋扈(ばっこ)将軍」とよんだ。
おこった冀は皇帝に毒入りの餅(もち)をたべさせて、ころしてしまった。
そのあとにだれをたてるかという議論がおこったとき、清河王が候補になった。
人望もあり、行動はけじめ正しく、そして宦官ぎらいの人である。
このうわさを聞いて曹騰は、梁冀をたきつけ、ちょうどそのころ、冀のもうひとりの妹と婚約がととのっていた蠡吾(れいご)侯を即位させてしまった。
それが桓帝(かんてい)で、十五歳であった。
桓帝は、これといってとりえのない、平凡な人物であった。
その治世二十年のあいだに、後漢はひたすら滅亡への道をあゆんでゆく。
はじめは外戚たる梁冀(りょうき)の専横であった。
あとは宦官の横暴がつづいた。梁氏をたおすために、皇帝が宦官の力を利用したからである。こうした状態をすくうために、いわゆる清流の士たちがおこした運動も、党錮(とうこ)の獄によってつぶされてしまう。
まさしく梁冀や、曹騰(そうとう)らの宦官がおかしたあやまちは大きかった。
さて後漢の時代には、宦官が養子をとることがみとめられていた。
そこで曹騰も、嵩(すう)を養子にする。この曹嵩の子として、曹操は生まれた。
桓帝の永寿元年(一五五)のことであった。祖父の曹騰は、いつ死んだか、わからない。
そのあと、霊帝のとき、朝廷が売官(ばいかん=官職を金で売る)をおこなうと、曹嵩は一億万銭を出して、最高の官職である大尉(たいい)の官を買った。
米一石(日本の一斗=14キロ)が約百銭といわれていた時代である。
それほどの富も、おそらくは曹騰が、宦官としての地位を利用して、えていたものであろう。