『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
3 大航海時代
1 「神がかり」だったコロンブス
コロンブスは自身語るどころの「船長の子」ではなく、一四五一年イタリアのジェノバの毛織り職人の子として生まれたらしい。
一四七九年リスボンで船長の娘と結婚し、海図をつくりはじめたあたりから、その伝記をたどることができる。
エンリケ航海王子のポルトガル以外に、大西洋の航海に大きな関心をもつ国はなかったから、コロンブスがポルトガルに現われた意味はわかりきったもののようだが、念のため、あとを追ってみよう。
一四八四年コロンブスがポルトガル王ジュアン二世に差し出して、一蹴(いっしゅう)された手紙というのがある。
「発見した領土は王様に献上いたします。
コロンブスは副王の称号をもつ総督に任命していただきます。
また大西洋の総督にしていただきます。
新領土の産物をポルトガル本国にはこぶときは、コロンブスが一割の税をいただきます。新領土からの王様の収入の八分の一は、コロンブスが頂戴(ちょうだい)いたします。」
これは西への航海計画を王にもちかけた条件の部分で、ひどく虫のよいスケールの大きなものである。
しかしこれが実現しなかったのは、ポルトガル王家がすでに喜望峰ルートの発見を予想して準備中だったためで、コロンブスの西への航海という考えそのものが、とっぴだったためではない。
天文学や天体観測も発達し、たとえばフィレンツェ大学のトスカネリ(一三九七~一四八二)という数学者は、地球球体説を主張し、「大西洋を西に直航すれば日本やシナに行ける」と断言して、大きく間違ってはいるものの地図までつくって、ポルトガル王に提供していた。
そしてコロンブスは、このトスカネリ説の誤りを拡大したうえ、自分の生涯変えることのない信念にした。
またすでに大帆船の建造が行なわれたり、羅針盤が使用されたりして、大洋航海への準備はととのいつつあった。
ポルトガルで志を得なかったコロンブスは、スペインに渡った。
彼は不思議な雄弁の魅力でしだいに高僧や有力者を味方につけ、王室から生活費を支給されるようになったらしい。
スペインのこのころの状態をこのあたりで説明しておこう。
かるく「スペイン」というが、やかましくいうとカスティリャのイサベル女王とアラゴン王フェルナンドがカスティリャのみを二人で共同統治しており、まだカスティリャとアラゴンの完全合併(一五一六)はできていない。
スペインの統一は政治・経済両面ではまだはっきり不完全であるが、イサベルとフェルナンドの夫婦(一四六九年結婚)はしっかりと結びついていた。
イサベル女王の即位(一四七四)にはポルトガル王アフォンソ五世の横槍がはいり、イサベルとフェルナンドはろばに乗って山道を仲よく逃げ歩いたことさえあった。
両方とも王様だというこの夫婦はローマ教皇からとくに信仰が深いという意味で、「カトリック王(複数)」の称号が与えられている。
これはイベリア半島南部アンダルシア地方に、まだイスラム教のグラナダ王国が残存しており、その陥落で半島十字軍による領土回復運動が、ようやく一四九二年正月に完成したことと関係する。
グラナダの陥落によって、スペインは海外にはじめて強い関心をもった。
イサベル女王(カステリヤ女王、在位一四七四~一五〇四)はコロンブスへの援助にのりだした。
これについてはコロンブスがポルトガル王やフランス王に接近する態度を示し、そのたびに女王から多額の金で引きとめられたという話がある。
イサベル女王も、その夫フェルナンド(アラゴン王、在位一四七九~一五一六)も、きわめて強気の支配者であった。
妻はカスティリャの統一に、夫はイタリアでの対フランス軍事活動に、恐るべき威力を発揮した。
コロンブスの航海はイサベル女王の「政策」の一部として実現した。
「女王が宝石を売った」という話で、この政策決定を説明するのは単純すぎる。
じつはパロスの港にビンソンという金持ちの船長がおり、彼のみすがら乗り組む持ち船サンタ・マリア号が提供されたことで、航海が可能になった。
パロス市があとの二隻、「ピンタ」と「ニーニャ」を女王の命令で用意した。
コロンブスはポルトガル王に出したのと同じ大きな要求を出して、重臣たちの抵抗を受けたが、女王はこれを承認した。
さらに女王は乗組員の過去の罪をいっさい許すことにして、船員集めにも協力した。
ポルトガルに立ちおくれたスペインの航海事業における正直な焦りを、ここにうかがうことができる。
ともかくポルトガルによる東方航路の開拓とほぼ同じ時期に、スペインによって西方航路が開かれることとなった。
一四九二年八月三日パロス港出帆、そして九月六日カナリア諸島を離れてから、未知の海を西へ航海した約一ヵ月が、不安と希望のいりまじった「コロンブスの航海」である。
船員の反乱をコロンブス一人でおさえつけたという事実はなく、むしろ船長たちも確信を持ちつづけ、反乱の事実もなかったらしい。
そして一行は、三十三日間の航海で十月十二日いまのバハマ諸島のウォトリング島に上陸、つづいてキューバ、ハイティなどの島々を発見し、その一部を植民地とした。
もっともウォトリング島というのは、いまからではたしかめる方法がないままの推定である。
ここで航海のいちばん緊張した輝かしい場面は終わり、物欲と内輪もめがはじまる。
コロンブスとビンソンは仲が悪くなった。
船長としての能力はビンソンのほうが上だったろうともいわれるが、コロンブスはビンソンを憎み、その功績を黙殺した。
翌一四九三年三月パロス港に帰ったコロンブスは、王夫妻から「新世界」の副王に任ぜられ、持ち帰った珍しい奴隷や煙草や金製品で全ヨーロッパに大きなショックを与えた。
第二回航海は一四九三年九月の出帆であった。
こんどは安全な利益のあがる航海という見込みなので、十七隻千五百人という大船団であった。
第一回目は、囚人や無法者をかき集めて水夫としたが、今回はむらがる応募者をおさえるのに苦労したという。
しかしこの航海で、コロンブスは植民地行政官としての無能を暴露し、九六年本国によびもどされた。
その後事実上の行政官がべつに任命され、コロンブスは副王としての立場で第三回の航海(一四九八~一五〇〇)を許されたが、その成果は大きくなかった。
コロンブスはじつは聞きかじりでよせ巣めの知識しかないくせに、天文学や航海学をはじめ、あらゆる学問に通じていると空想し、また信じこんでいたらしい。
この一種の「神がかり」なコロンブスは、発見したところを最後までアジアだと信じており、聖書の地名を勝手につけたりして、役に立たない報告書を書いた。
もしこのとき彼が科学的に探検を進めていったならば、コロンビアという南米の小国の名はアメリカ大陸を示していたはずである。
コロンブスは、ヨーロッパ人としては最初にアメリカ大陸をふんだのだから……。
ともかく「アメリカ」という名は、つぎのようなわけで別人から由来した。
一四九九年九月、あとで述べるように、ポルトガル人のバスコ・ダ・ガマがインドからリスボンに帰着し、きわめて実質的な利益を保証する航海ができた。
しかしスペインもけっして頭の古いコロンブスだけに、航海事業を一任していたわけではない。
コロンブスとはべつに、大探検隊を中南米に派遣していた。
そのなかにいたアメリゴ・ベスプッチ(一四五一~一五二一)というイタリア人が航海記を発表し、それから「アメリカ」の名が生まれた。
コロンブスの第四回航海(一五〇二~○四)が許可された事情はよくわからない。
「遭難を期待」されたといわれるほど、貧弱で質の悪い船団であり、苦しいといえばもっとも苦しい航海で、はじめてアメリカ大陸の一部ホンジュラス湾付近に着いたが、このあいだにコロンブスは完全に過去の人になった。
失意と貧困と焦燥のうちに、一五〇六年コロンブスは死んだ。
その副王職にともなう特権は大きく削減されていたが、遺言状には
「私は国王と女王にインドを進んで献上した……」とある。
いまでもアメリカ原住民がインディアンとよばれているのは、彼の誤りの名残りである。