『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
11 台湾の鄭氏政権
1 台湾の支配者
台湾は、いまから三百年ほど前まで、中国の外にあった。すなわち中国の一部とも、その王朝の領土とも、考えられていなかった。
福建の岸から、わずか二〇〇キロの洋上にありながら、ほとんど中国人の関心をひかなかったとは、思えばふしぎな話である。
島に住みついたのは、インドネシア系の民族であった。
いわゆる高山族で、粟(あわ)の栽培を主とする焼畑の農業をいとなんできた。
それも単一なものではない。
言葉も、文化の程度も、部族や部落によって違っており、対立と抗争とをくりかえしてきた。
未開の蕃地(ばんち)ではあっても、外来のものが入りこまぬ限り、ひろい南国の島は、いわゆる高山族が気ままにふるまうことのできる楽天地であった。
十六世紀になって、東アジアに達したポルトガル人は、この島を海上から望見して「イラ・ホルモサ」Ilha Formosa と呼んだ。
「美しい島」という意味である。
この名称は、いまもヨーロッパでもちいられている。
「美しい島」に目をつけたのは、もちろんヨーロッパ人だけではない。
おりから中国では、明代の後期である。日本は戦国時代である。
そして明朝は、依然として民間の貿易を禁止している。
そこで海上に出てはたらこうとすれば、どうしても密貿易にならざるをえない。
南海や日本にまで出かけていって、交易をいとなみ、巨利を博そうとする。
日本からも、命しらずの荒武者が出かけてゆく。
しかも密貿易であるから、みつかれば取締りをうける。
これに対抗するには、武力をもたねばならぬ。こうして倭寇(わかん)とよばれる海賊の登場となった。
ただし倭寇とよばれても、このころの倭寇には、むしろ日本人はすくなかった。
大部分が中国人で、その人びとにとって、もっとも安全な根拠地が台湾であった。
ここには明の官憲の力も及んでいない。
こうして台湾は、ようやく中国人の間に知られるにいたったのである。
福建や広東から移住してくる者も、年ごとにふえていった。
海岸にちかく、農耕に適した良地は、中国人によって開かれていった。
しかし台湾を最初に領有したのは中国人ではない。
十七世紀のはじめ、はやくもオランダ人は、中国大陸と台湾との間にある膨湖(ぼうこ)島を占領している。
その後、明朝とオランダ人との開に交渉があり、オランダ人は澎湖島から引きあげるかわりに、台湾を占領することが、明朝から黙認された。
オランダ人は一六二四年、いまの台南市の西、安平(アンピン)の地を占領して、ゼーランディア城をきずいた。
ここは原住民から「タイワン」と呼ばれていた。
すなわち「台湾」という名称は、ここから発したのである。
また、いまの台南には、プロビンシア城をきずいた。
その跡は、赤嵌楼(せきかんろう)として残っている。
ついでスペイン人が、北部の基隆(キールン)を占領して城をきずき(一六二六)、さらに淡水(たんすい)をも占領した(一六二九)。
しかしオランダ人は、一六四二年にはスペイン人を追いはらい、台湾の全島を支配するにいたったのである。
その二年後に、明朝は倒れた。
さて中国大陸では、清朝が支配者となったものの、その力も台湾に及ぶには至らない。
そのすきをねらって台湾を領有したのは、明朝の復興をめざした国姓爺(こくせんや)、すなわち鄭成功(ていせいこう)であった。
一六六二年、鄭成功はオランダ人を追いはらって、はじめて中国人による領有をなしとげた。
その政権は三代、二十一年あまりつづいた。
そうして一六八三年、鄭氏の降伏をもって、ここに台湾は、はじめて中国の王朝が支配する領土となった。
それから後の台湾の歴史は、よく知られているところである。
清朝は、いまの台南に台湾府をおいて、支配の中心とし、福建省に属させた。
しかし海をへだてた領土であるから、直接の統治はゆきとどかない。
中国人の進出はめざましかったが、清朝にとって台湾は「化外の地」であった。
台湾が独立の一省となったのは、ようやく一八八五年のことである。
それから十年後、台湾は日本に割譲された。日本の領有は五十年にわたってつづけられ、敗戦によって一九四五年、台湾はふたたび中国の領土となった。
しかし中国には、まもなく内戦がおこる。
一九四九年十二月、大陸をうしなった国民政府は、二百万をこえる軍隊と政府の機構を台湾にうつしたのであった。