『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
5 斜陽のイタリア半島――イタリア・ルネサンスの片影Ⅱ――
3 チェザレ・ボルジア
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一四九八年五月二十三日、サボナローラの火刑を目撃したひとりの男がいたという。彼は、ついこのあいだまでサボナローラに狂喜していた民衆が、いまはあざ笑い、ののしり、非難しているありさまを見たし、また人肉がこげる恐ろしいにおいをかいだであろう。
彼はのちに書いている。
「武装した予言者はみな勝利をしめ、備えのない予言者は滅びる……」
この男、ニッコロ・マキアベリは一四六九年五月フィレンツェに生まれた。
ちょうど父ピエロの死によって「豪華王」ロレンツォが権力をにぎったころである。家庭は裕福ではなかったが、父は学問ずきの法律家であり、母は詩作をするなど、かなりの才女であったらしい。
彼の若いころについてはあまりよくわかっていないが、早くからラテン語を学び、ローマの古典に親しんだようである。
そしてサボナローラの死ののち、一四九八年六月ごろ、マキアベリはフィレンツェ政庁の第二書記局につとめることとなった。
当時のこうした官職は、たんなる小役人のそれではない。
古典の教養が深い者がえらばれ、いわば知的エリートの集団であり、マキアベリの仲間にもすぐれた人文主義者たちがいた。
そしてその仕事も静的なものではなく、十五年ほどのあいだに、彼はイタリア諸都市や諸外国に出張して、外交・軍事問題で活躍した。
しかし彼自身は外交官らしい風格ではなく、両眼ばかりがきらきら輝いている小利口そうな顔、青白い肌、質素な身なりで、あまり風采(ふうさい)はあがらなかったといわれる。外交使節マキアベリとして特筆すべきことは、一五〇二年、あのチェザレ・ボルジアと交渉をもったことであろう。
思想家マキアベリ――彼はフィレンツェ
再建に立ち上がるが失敗し、苦境の
中で不朽の著『君主論』を書き上げる。
これは交友のあったチェザレの
政治的才能から学んだものであった。
学校での歴史教育では『君主論』
の中身まで教える時間がない。
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チェザレは、スペインの名家ボルジア家の出である教皇アレクサンデル六世と、名もない一女性――手練于管(てれんてくだ)にたけた女とも、素朴な女とも伝えられるが――とのあいだに、一四七五年ごろ生まれた庶子(しょし)で、弟や妹があった。
この一事でも推察されるように、当時の教皇は聖職者らしくなくて、きわめて世俗的であった。
それはアレクサンデル六世に先立つシクストス四世(在位一四七一~八四)のころからいちじるしい。
この教皇は甥などの自分の一族を要職につける「縁者びいき(ネポテイズム)」を始めたり、経済上の目的からさかんに「聖職売買(シモニー)」を行なったりした。
しかし一方では、シクストス四世はバティカン図書館やシスティナ礼拝(れいはい)堂などをつくり、画家ボッティチェリらが招かれて、この礼拝堂を飾った。
こうしてこのはなはだ世俗的な教皇はまた、はなばなしいルネサンス期教皇の先駆者であったのだ。
シクストス四世から一代おいたアレクサンデル六世も、サボナローラが非難したように盛んな権力意志、陰険(いんけん)な権謀術数(けんぼうじゅくすう)、悪辣(あくらつ)な聖職売買などで悪名が高かったが、一方では大建築家ブラマンテ(一四四四~一五一四)、ラファエロ、ミケランジェロなどを保護した代表的なルネサンス期教皇であった。
その子チェザレは父にもまして、典型的なルネサンス期専制君主のタイプである。
彼は自分の権勢をますためには、父の寵愛(ちょうあい)をうけていた弟カンディア公をおそらく暗殺したり、妹ルクレティアを政略結婚の犠牲にしてかえりみなかった。
しかし一面では、彼は美術家を保護し、レオナルド・ダ・ビンチとも親しかった。
チェザレはフランス王やアレクサンデルの支持のもとに、イタリア統一の野心を抱き、まず北イタリア方面を勢力下におこうとした。
一四九九年から着々と効果があがり、一五〇二年フィレンツェがおびやかされる形勢となった。
そこでフィレンツェ当局はチェザレと交渉し、これと友好関係を結ぶことにつとめたが、この外交に関係したのがマキアベリである。
彼はチェザレの非凡な政治的能力に驚かされ、いわゆるビルツの権化(ごんげ)をそこに見たのである。
ビルツとは人間の行動を生みだす活力であり、政治指導者には不可欠のものと考えられた。
マキアベリはチェザレのなかに乱世に処する政治家の素質を見ぬき、これは彼の代表作『君主論』に大きく影響したといわれる。
一方チェザレは北イタリア方面を押え、いまやイタリア統一にのりだそうとする。
このとき事態は急変、一五〇三年アレクサンデル六世が急死した。
流行の熱病にかかったとの説が強いが、一説によれば、枢機卿(すうききょう)たちを毒殺するために用意していた毒入りぶどう酒を、まちがえて自分で飲んでしまったとも伝えられる。
召使たちは一つのびんから教皇とチェザレのさかずきに酒をつぎ、もう一つのびんで枢機卿たちのさかずきを満たした。
教皇はそのまま飲み、チェザレは水でうすめて飲んだ。
チェザレは熱病にもかかっているが、心身の強さが生命を救ったものと思われる。
ともかくローマの市民たちは、この「野望、裏切り、残虐、色欲、貪欲(どんよく)」のかたまりのような教皇の死を、一種の安心感をもって迎えたという。
こうしてチェザレは最大の後援者を失ったのみならず、一代おいて、つぎの教皇ユリウス二世(在位一五〇三~一三)はボルジア家と仲がわるく、彼自身イタリア統一の野心をもっていただけに、チェザレを敵視した。
威光と権勢がなくなった風雲児は哀れである。
諸外国を巧みにあやつるユリウス二世の追及のまえに、ついにチェザレは捕われてスペインのある城に幽閉されてしまう。 そしてここを脱出した彼は、スペイン王にいどまれた戦いに加わり、ある小都市の包囲戦で、一五〇七年三月、あれほど利己的であった男におよそふさわしくない無意味な死をとげた――。
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5 斜陽のイタリア半島――イタリア・ルネサンスの片影Ⅱ――
3 チェザレ・ボルジア
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一四九八年五月二十三日、サボナローラの火刑を目撃したひとりの男がいたという。彼は、ついこのあいだまでサボナローラに狂喜していた民衆が、いまはあざ笑い、ののしり、非難しているありさまを見たし、また人肉がこげる恐ろしいにおいをかいだであろう。
彼はのちに書いている。
「武装した予言者はみな勝利をしめ、備えのない予言者は滅びる……」
この男、ニッコロ・マキアベリは一四六九年五月フィレンツェに生まれた。
ちょうど父ピエロの死によって「豪華王」ロレンツォが権力をにぎったころである。家庭は裕福ではなかったが、父は学問ずきの法律家であり、母は詩作をするなど、かなりの才女であったらしい。
彼の若いころについてはあまりよくわかっていないが、早くからラテン語を学び、ローマの古典に親しんだようである。
そしてサボナローラの死ののち、一四九八年六月ごろ、マキアベリはフィレンツェ政庁の第二書記局につとめることとなった。
当時のこうした官職は、たんなる小役人のそれではない。
古典の教養が深い者がえらばれ、いわば知的エリートの集団であり、マキアベリの仲間にもすぐれた人文主義者たちがいた。
そしてその仕事も静的なものではなく、十五年ほどのあいだに、彼はイタリア諸都市や諸外国に出張して、外交・軍事問題で活躍した。
しかし彼自身は外交官らしい風格ではなく、両眼ばかりがきらきら輝いている小利口そうな顔、青白い肌、質素な身なりで、あまり風采(ふうさい)はあがらなかったといわれる。外交使節マキアベリとして特筆すべきことは、一五〇二年、あのチェザレ・ボルジアと交渉をもったことであろう。
思想家マキアベリ――彼はフィレンツェ
再建に立ち上がるが失敗し、苦境の
中で不朽の著『君主論』を書き上げる。
これは交友のあったチェザレの
政治的才能から学んだものであった。
学校での歴史教育では『君主論』
の中身まで教える時間がない。
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チェザレは、スペインの名家ボルジア家の出である教皇アレクサンデル六世と、名もない一女性――手練于管(てれんてくだ)にたけた女とも、素朴な女とも伝えられるが――とのあいだに、一四七五年ごろ生まれた庶子(しょし)で、弟や妹があった。
この一事でも推察されるように、当時の教皇は聖職者らしくなくて、きわめて世俗的であった。
それはアレクサンデル六世に先立つシクストス四世(在位一四七一~八四)のころからいちじるしい。
この教皇は甥などの自分の一族を要職につける「縁者びいき(ネポテイズム)」を始めたり、経済上の目的からさかんに「聖職売買(シモニー)」を行なったりした。
しかし一方では、シクストス四世はバティカン図書館やシスティナ礼拝(れいはい)堂などをつくり、画家ボッティチェリらが招かれて、この礼拝堂を飾った。
こうしてこのはなはだ世俗的な教皇はまた、はなばなしいルネサンス期教皇の先駆者であったのだ。
シクストス四世から一代おいたアレクサンデル六世も、サボナローラが非難したように盛んな権力意志、陰険(いんけん)な権謀術数(けんぼうじゅくすう)、悪辣(あくらつ)な聖職売買などで悪名が高かったが、一方では大建築家ブラマンテ(一四四四~一五一四)、ラファエロ、ミケランジェロなどを保護した代表的なルネサンス期教皇であった。
その子チェザレは父にもまして、典型的なルネサンス期専制君主のタイプである。
彼は自分の権勢をますためには、父の寵愛(ちょうあい)をうけていた弟カンディア公をおそらく暗殺したり、妹ルクレティアを政略結婚の犠牲にしてかえりみなかった。
しかし一面では、彼は美術家を保護し、レオナルド・ダ・ビンチとも親しかった。
チェザレはフランス王やアレクサンデルの支持のもとに、イタリア統一の野心を抱き、まず北イタリア方面を勢力下におこうとした。
一四九九年から着々と効果があがり、一五〇二年フィレンツェがおびやかされる形勢となった。
そこでフィレンツェ当局はチェザレと交渉し、これと友好関係を結ぶことにつとめたが、この外交に関係したのがマキアベリである。
彼はチェザレの非凡な政治的能力に驚かされ、いわゆるビルツの権化(ごんげ)をそこに見たのである。
ビルツとは人間の行動を生みだす活力であり、政治指導者には不可欠のものと考えられた。
マキアベリはチェザレのなかに乱世に処する政治家の素質を見ぬき、これは彼の代表作『君主論』に大きく影響したといわれる。
一方チェザレは北イタリア方面を押え、いまやイタリア統一にのりだそうとする。
このとき事態は急変、一五〇三年アレクサンデル六世が急死した。
流行の熱病にかかったとの説が強いが、一説によれば、枢機卿(すうききょう)たちを毒殺するために用意していた毒入りぶどう酒を、まちがえて自分で飲んでしまったとも伝えられる。
召使たちは一つのびんから教皇とチェザレのさかずきに酒をつぎ、もう一つのびんで枢機卿たちのさかずきを満たした。
教皇はそのまま飲み、チェザレは水でうすめて飲んだ。
チェザレは熱病にもかかっているが、心身の強さが生命を救ったものと思われる。
ともかくローマの市民たちは、この「野望、裏切り、残虐、色欲、貪欲(どんよく)」のかたまりのような教皇の死を、一種の安心感をもって迎えたという。
こうしてチェザレは最大の後援者を失ったのみならず、一代おいて、つぎの教皇ユリウス二世(在位一五〇三~一三)はボルジア家と仲がわるく、彼自身イタリア統一の野心をもっていただけに、チェザレを敵視した。
威光と権勢がなくなった風雲児は哀れである。
諸外国を巧みにあやつるユリウス二世の追及のまえに、ついにチェザレは捕われてスペインのある城に幽閉されてしまう。 そしてここを脱出した彼は、スペイン王にいどまれた戦いに加わり、ある小都市の包囲戦で、一五〇七年三月、あれほど利己的であった男におよそふさわしくない無意味な死をとげた――。
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