『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
5 五胡十六国
4 苻(ふ)氏の秦国(しんこく)
永和八年(三五二)、チペット系の氐(てい)族のなかから苻健(ふけん)が自立して、国号を「秦(しん)」となづけた。
根拠地は甘粛(かんしゅく)の東部である。この地方はシルクーロードにそった交通の要地であった。
石虎は東方に都をおいていたから、苻氏を利用して、西方をおさえさせていた。
しかし後趙がほろびるとともに、苻健は長安で自立する。
おりしも東晋では桓温の時代にあたっていた。北征の軍がおこされ、長安をめざして進む。晋の四万の兵をむかえ苻健も五万の兵を出した。
また苻健は、あらかじめ麦を刈りとっておいて、いわゆる清野(せいや)の策をとった。これでは桓温の軍も、食糧の不足になやんで、しりぞかざるをえない。
苻健は内政にも気をくばった。法はただ三章のみ、租税を減じ、民生の安定につとめた。それができたというのも、いっぼうで商業を奨励していたからである。
長安の南(豊陽)に貿易場をひらき、漢水を利用して、南方のめずらしい品物を輸入し、商人をまねいて交易をさかんにおこなわせた。
苻健が在位四年で病死すると、三男の苻生(ふせい)があとをついだ。生まれながらの独眼で性質は無頼であった。
祖父の苻洪(ふこう)は、そういう苻生をにくみ、三歳年下のいとこで、学問をこのむ苻堅(ふけん)をかわいがっていた。
苻洪があるとき言った。
「この子はきちがいだ。はやく殺してしまえ。そうしないと、成長してから家をつぶしてしまうぞ。」
叔父がそばから「子供というものは、成長すれば自然によくなるものだ」ととりなした。
苻生は大きくなると、力は千鈞(きん)をあげ、素手で猛獣とたたかい、鳥とかけくらべをしても負けないという、たくましい青年になった。
戦争には強く、桓温が攻めてきたときも、ひとりで敵陣にのりこみ、晋の将軍十人あまりを斬りころした。
酒もつよい。即位してからのことであるが、大極殿(だいごくでん)のまえで宴会をひらき、酒をのみ歌をうたう。
そのうちに大臣たちの酒ののみようが少ないといって、これを殺す。
殺されてはたまらないから、大臣たちも負けずに酒をのみ、あげくのはては酔いつぶれてしまう。
とにかく、めちゃくちゃな人物として、苻生は歴史に名をとどめた。
ついに、苻堅が苻生を殺すが、そのときも酔っていて前後不覚のままだったという。
苻堅はまさしく対照的な人物であった。祖父の苻洪は、これに言った。
「おまえは先祖代々酒を飲むことしか知らぬ戎狄(じゅてき)の身で、学問をしようというのか。」
このように苻堅は、中国の文化を身につけ漢民族の協力をえることに成功して、秦の地位を不動のものにしたのであった。
苻堅をたすけて、農耕社会に適応した政治をおこなわせたのが、王猛である。
わかいときには、ひどい貧乏で、もっこをあきなっていた。
ある日のこと、洛陽に出てもっこを売っていると、高いねだんで買ってくれる人があった。
ただし、いまは金をもっていないから、ついてこいという。
そう遠くはないというので、ついて行くと、たしかに遠くまで歩いていないはずなのに、深山についた。
山には、ひげも髪も白い老人がすわっていて、まわりに十人ばかりの人がいる。
その老人が、いつもの十倍の値段でもっこを買ってくれたのである。人におくられて山を出たが、その山は仙人の住む嵩山(すうざん)であった。
やがて王猛じしんも、長安の近くの華山に引きこもってしまう。
いかにも浮き世ばなれのした人のように思えるが、そうではない。
ただ、こんな話があるところが、いかにもこの時代の人らしいのである。
桓温か北伐してきたとき、王猛はそまつな着物をきて出かけていった。
そして時勢を論じながら、シラミをつぶしている。
傍若無人(ぼうじゃくぶじん)のふるまいをして、とうとう桓温に仕えようとはしなかった。
その王猛が、苻堅をひと目みてすっかり気にいる。
苻堅も、王猛をみてよろこび、ちょうど劉備と孔明のような間柄になった。
しかし王猛が重くもちいられたことから、国内において、とくに氐族のあいだに強い抵抗がおこった。
氐族の大立者たる樊世(はんせい)も、そのひとりであった。
ある日多くの人がいる前で、樊世は王猛にむかって言った。
「わがはいは先帝(苻健)といっしょに旗上げをした。おまえは戦争など何もしていないではないか。
しかも国家の大任をになっている。わがはいが耕して、おまえがこれを食べるのか。」
王猛も負けてはいない。
「あなたさまはせいぜい料理人、耕すなど、とんでもありません。」
樊世はかんかんになった。
「なんでもよい。きっとおまえの首を長安の城門にかけてやろうわい。」
ふたりの争いにさいして、苻堅は王猛にくみし、そして政策の転換をおこなった。商業はおさえられた。
内政を充実するとともに、外にむかって国力をのばし、やがて慕容氏の燕(えん)とぶつかることになる。
しかも燕では升平四年(三六〇)、慕容儁(しゅん)が病死したのちは、国内が混乱して、国力もしだいに下降線をたどっていた。
5 五胡十六国
4 苻(ふ)氏の秦国(しんこく)
永和八年(三五二)、チペット系の氐(てい)族のなかから苻健(ふけん)が自立して、国号を「秦(しん)」となづけた。
根拠地は甘粛(かんしゅく)の東部である。この地方はシルクーロードにそった交通の要地であった。
石虎は東方に都をおいていたから、苻氏を利用して、西方をおさえさせていた。
しかし後趙がほろびるとともに、苻健は長安で自立する。
おりしも東晋では桓温の時代にあたっていた。北征の軍がおこされ、長安をめざして進む。晋の四万の兵をむかえ苻健も五万の兵を出した。
また苻健は、あらかじめ麦を刈りとっておいて、いわゆる清野(せいや)の策をとった。これでは桓温の軍も、食糧の不足になやんで、しりぞかざるをえない。
苻健は内政にも気をくばった。法はただ三章のみ、租税を減じ、民生の安定につとめた。それができたというのも、いっぼうで商業を奨励していたからである。
長安の南(豊陽)に貿易場をひらき、漢水を利用して、南方のめずらしい品物を輸入し、商人をまねいて交易をさかんにおこなわせた。
苻健が在位四年で病死すると、三男の苻生(ふせい)があとをついだ。生まれながらの独眼で性質は無頼であった。
祖父の苻洪(ふこう)は、そういう苻生をにくみ、三歳年下のいとこで、学問をこのむ苻堅(ふけん)をかわいがっていた。
苻洪があるとき言った。
「この子はきちがいだ。はやく殺してしまえ。そうしないと、成長してから家をつぶしてしまうぞ。」
叔父がそばから「子供というものは、成長すれば自然によくなるものだ」ととりなした。
苻生は大きくなると、力は千鈞(きん)をあげ、素手で猛獣とたたかい、鳥とかけくらべをしても負けないという、たくましい青年になった。
戦争には強く、桓温が攻めてきたときも、ひとりで敵陣にのりこみ、晋の将軍十人あまりを斬りころした。
酒もつよい。即位してからのことであるが、大極殿(だいごくでん)のまえで宴会をひらき、酒をのみ歌をうたう。
そのうちに大臣たちの酒ののみようが少ないといって、これを殺す。
殺されてはたまらないから、大臣たちも負けずに酒をのみ、あげくのはては酔いつぶれてしまう。
とにかく、めちゃくちゃな人物として、苻生は歴史に名をとどめた。
ついに、苻堅が苻生を殺すが、そのときも酔っていて前後不覚のままだったという。
苻堅はまさしく対照的な人物であった。祖父の苻洪は、これに言った。
「おまえは先祖代々酒を飲むことしか知らぬ戎狄(じゅてき)の身で、学問をしようというのか。」
このように苻堅は、中国の文化を身につけ漢民族の協力をえることに成功して、秦の地位を不動のものにしたのであった。
苻堅をたすけて、農耕社会に適応した政治をおこなわせたのが、王猛である。
わかいときには、ひどい貧乏で、もっこをあきなっていた。
ある日のこと、洛陽に出てもっこを売っていると、高いねだんで買ってくれる人があった。
ただし、いまは金をもっていないから、ついてこいという。
そう遠くはないというので、ついて行くと、たしかに遠くまで歩いていないはずなのに、深山についた。
山には、ひげも髪も白い老人がすわっていて、まわりに十人ばかりの人がいる。
その老人が、いつもの十倍の値段でもっこを買ってくれたのである。人におくられて山を出たが、その山は仙人の住む嵩山(すうざん)であった。
やがて王猛じしんも、長安の近くの華山に引きこもってしまう。
いかにも浮き世ばなれのした人のように思えるが、そうではない。
ただ、こんな話があるところが、いかにもこの時代の人らしいのである。
桓温か北伐してきたとき、王猛はそまつな着物をきて出かけていった。
そして時勢を論じながら、シラミをつぶしている。
傍若無人(ぼうじゃくぶじん)のふるまいをして、とうとう桓温に仕えようとはしなかった。
その王猛が、苻堅をひと目みてすっかり気にいる。
苻堅も、王猛をみてよろこび、ちょうど劉備と孔明のような間柄になった。
しかし王猛が重くもちいられたことから、国内において、とくに氐族のあいだに強い抵抗がおこった。
氐族の大立者たる樊世(はんせい)も、そのひとりであった。
ある日多くの人がいる前で、樊世は王猛にむかって言った。
「わがはいは先帝(苻健)といっしょに旗上げをした。おまえは戦争など何もしていないではないか。
しかも国家の大任をになっている。わがはいが耕して、おまえがこれを食べるのか。」
王猛も負けてはいない。
「あなたさまはせいぜい料理人、耕すなど、とんでもありません。」
樊世はかんかんになった。
「なんでもよい。きっとおまえの首を長安の城門にかけてやろうわい。」
ふたりの争いにさいして、苻堅は王猛にくみし、そして政策の転換をおこなった。商業はおさえられた。
内政を充実するとともに、外にむかって国力をのばし、やがて慕容氏の燕(えん)とぶつかることになる。
しかも燕では升平四年(三六〇)、慕容儁(しゅん)が病死したのちは、国内が混乱して、国力もしだいに下降線をたどっていた。