
『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
14 イワン雷帝
3 激情の青年皇帝
ロシア史のうえで重要な人物を三人あげるとすれば、ピョートル大帝(在位一六八二~一七二五)とレーニンのつぎには、おそらくイワン雷帝がくる。
スターリンもかってイワン雷帝を「レーニンの先駆者」とよんだ。
ソ連の有名な映画監督エイゼンシュティン(一八九八~一九四八)が、晩年に映画「イワン雷帝」(一九四四)を作ったが、ある日、主役のチェルカーソフとともに、クレムリンに招かれてスターリンの「ご高説」を拝聴した。
そのさい、スターリンは「政治家」としてのイワン雷帝を賞讃し、「彼は思慮の深い、偉大な統治者であり、ロシアの統一を完成するとともに、外国の影響力が国内に浸透するのを防いだ」とのべ、とくにその外国貿易にたいする国家独占政策の「進歩性」を強調した。
そしてさらにイワンのおかした失敗にもふれ、彼は封建貴族にたいする闘いをもっと徹底してやるべきであった。
とくに大貴族(ボヤール)の「五大家」を絶滅させるだけの決断を欠いたことが致命的であり、このためにのちの「動乱」をまねいた。
けっきょく、イワン雷帝は「神を信じたがゆえに」誤ったのであるとのべた。
しかし、ロシアの学者のあいだでもイワン雷帝の評価をめぐって、さまざまな意見の対立があり、彼はこんにちにおいてなおロシア史上の「問題の人」であった。
いずれにせよ、歴代のツァーリのうちで、イワン雷帝ほど不幸な、ゆがめられた環境のうちに幼少年時代をおくったものは少ない。
彼は三歳で父を失い、七歳にして母を毒殺され、大貴族の陰謀がうずまく宮廷に孤児として育った。
のちに自身で述懐するところによると、 「私と弟のユーリーは、よそもののように、乞食の子のようにあつかわれ、食べるものも、着るものも、満足には与えられず、自由も許ざれず、年に不似合いなことばかりを無理強いされた」と。
幼いイワンは、宮殿の財宝がいつのまにか運び去られ、亡父のベッドには大貴族のシュイスキー公が寝そべっているのを見た。
また、「彼ら(大貴族)は、町といわず、村といわず、いたるところをほっつきまわり、住民に容赦なく罰金を科し、人民を苦しめ、ありとあらゆる悪事をおこなった。
彼らは余の家臣を奴隷とし、彼らの奴隷を貴族にした」ともいう。
しかし、外国の使節を引見したり、法令に署名したりするときには、まだ子供のイワンもツァーリとしてたてまつられ、「君主としては、かわいがり、子供としては虐待した。」
これらのことが、生まれつきすぐれた頭脳と鋭い感受性の持ち主であった少年イワンの性格を、おおいにスポイルしたと歴史家はいう。
当時は大貴族のあいだでベリスキー家とシュイスキー家が対立して権力を争い、流血がくりかえされ、しばしば幼いツァーリの寝室までがおそわれ、イワンは早くから死の恐怖をも体験した。
彼はまず、「歯をくいしばって耐える」ことを学び、「怒りっぼい、陰鬱(いんうつ)な、口数の少ない」人間となり、他人にたいしては「不信」「猜疑(さいぎ)心」「恐怖感」「自己防衛の本能」を強めた。
また、恵まれない家庭で育った子供にありがちな、早熟でさえあった。
まだ十六歳のこの少年は、遊びの最中に突然、結婚したいといいだして周囲のものをびっくりさせた。
したがって、この少年が「ツァーリ」という名のもつ権力の強さを知ったとき、ここに大貴族にとっては手のつけられないほど恐ろしい人物ができあがった。
ある日ペルシアから象が贈られてきたが、それがツァーリの前でひざまずかなかったのを怒って、イワンは即座にこれを殺させたという。
彼は激情にかられると、前後を忘れてカンシャク玉を爆発させ、そのあとではげしい後悔の念におそわれるのが常であった。
その晩年(死の二年前)における不幸な「息子殺し」事件が、よい例である。
そのきっかけはごくつまらないこと、すなわち、懐妊中であった息子の嫁の身なりがだらしないということ――そこで思わず嫁の頬をうち、それがもとて父と子のいさかいとなり、やがて逆上した父が手にした鉄の錫杖(しゃくじょう)で息子の頭をなぐると、相手は倒れて、そのまま動かなくなった。
その生涯を、きびしい孤独のうちにおくったイワンは、早くから読書に慰めを見出し、聖書、聖書伝、年代記のたぐいを読みあさり、当時のロシアでも有数の博識家となっていた。
彼の書いた文章は、現存するクルプスキー公あての書簡に見られるように、ビザンティン流の荘重で格調の高い名文である。
また彼は神にたいしても敬虔(けいけん)であり、大貴族にたいする処置もはじめのうちはかなり慎重で、不必要な残虐はさけていた。
フランク王国のカール大帝(在位七六八~八一四)やナポレオンのように、モスクワのウスペンスキー寺院で大主教の手から「帝冠」(いわゆる「モノマフの冠」)をうけ、「キリスト教皇帝」として華々しい戴冠式をあげたのは、ロシアではイワン雷帝が最初である。
しかも、当時の彼はわずか十七歳の青年であった。ついでこの年にはロマノフ家のアナスターシアを皇妃に選び、結婚式もあげるが、まもなくモスクワには異変が頻発する。
寺院の大鐘が不意に落下したり、強風のなかに火災がおこり首都の大半が焼失したりする。
そして巷間(こうかん)には「アンナ・グリンスカヤの妖術」の噂がとぶ。
このアンナというのはイワンの母方の祖母。
この老婆が妖術師で、人間の生き肝を水につけ、この水をモスクワの家々にふりまいたのが大火の原因であるというのである。
この流言に興奮した群衆がクレムリンに押し入り、アンナの引き渡しを要求して暴動となる。
この異変のかげに大貴族の陰謀があるのを見てとったイワンは、ここに国政の一大改革を決意する。
彼はもはや大貴族を信頼せず、身分の低い司教シリベストルや士族(ドボリアン)のアダショフを登用して、「側近会議」をつくり、その献策にしたがって、一五五〇年、ロシアで最初の身分制議会「ゼムスキー・ソボール」を召集する。
一部の学者はこれを古代スラブの「民会」の復活であるともいうが、不幸にしてこの「ソボール」の公式記録は現存しない。
伝承によると、その日は日曜日で、ツァーリ・イワンは十字架を手にして「赤い広場」(古くは赤いというロシア語は美しいの意)に立ち、まず神に祈りをささげてから、大貴族を非難する演説を行なったという。
このソボールには、各都市からの代表も集まったというが、それがいかなる人たちであったかは不明。
ついで、その翌年(一五五一)には宗教会議も召集され、教会行政と信仰問題に関する「百ヵ条」が制定される。
さらに、地方行政と裁判制度の改革による綱紀粛正、新しい法典の編纂など、青年ツァーリの活躍にはめざましいものがあった。
また外交の面でも、カザンとアストラハンの二汗国を併合(一五五二~五四)して「タタールのくびき」に終止符を打ち、ロシアがシベリアや中央アジアペ進出する端緒をひらいている。
彼はまた、「ヨーロッパヘの窓」を開こうとした最初のツァーリでもあった。
しかし、バルト海への出口をもとめて開始された、スウェーデンやポーランドなどとのリボニア戦争(一五五八~八三)は、その予想に反して長期化し、彼の治世の前途に暗影を投げるものとなった。
イワンの「改革」がけっきょく中途半端におわり、後世の史家によって非難方れる「悪政」に転化するのも、このリボニア戦争の失敗に起因するところが多い。
シリベストルの追放、アダシーフの失脚、それにつづくリボニア征討軍司令官クルプスキー公の逃亡事件は、イワンの親政における重大な転機となる。
万事が意のごとく進まないのにいらだって、彼の「雷」がいよいよ爆発する。
この時期のイワンは、善意の「勧告」をも悪意の「干渉」ととりちがえ、反対意見をすべて「反逆」とうけとり、味方を敵と感ちがいし、彼の周囲には陰謀がうずまいていると錯覚した。
彼はイギリスのエリザベス女王に手紙を書き、亡命をさえ訴えていた。
まさにノイローゼ症状である。
