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『死者のための祈り- 聖ドン・ボスコの教え』アロイジオ・デルコル神父編、12
◆3-7、煉獄についての聖ドン・ボスコの著書
ところで教父たちのことに移りましょう。ここで注意していただきたいのは、教父たちを何人かの独立した人として考えてはならないことです。また、迫害の時代に生きていた教父たちのことも計算に入れません。というのは、当時、教会は迫害に悩み、信仰箇条について、まだ問題が起きていなかったので、教会は、その信仰を明らかに示していなかったからです。でも、迫害の恐ろしい時代が終わると、教会の教えは、ますます公けに宣言されるようになりました。
そうなると、初代教会の時代からこのマカベ書は聖書として教会で読まれるようになり、カルタゴ市の第3教会会議も、また有名な聖アウグスティノも教皇聖インノチェンシオ1世(405年)も、聖ジェラジオ教皇も、ローマで70名の司教を集めて、この書を聖書正典として宣言しました(494年)。
教父たちのことはさておいても、プロテスタントでさえ、マカベの書を歴史的な事実を伝えるものとして認めているではありませんか。そうしますと、マカベの時代には、ユダヤ人が亡くなった人のために、その人の罪が許されるように、いけにえを捧げるのは正しいことと考えていたのです。まえに引用したヨゼフ・フラビウスが伝えるように、ユダヤ人たちは、自殺した人のためには祈っていませんでした。また、アブラハムのふところ、つまり救われた人のためにも祈ってはいませんでした。その人たちが確実に救われていて、祈りを必要としないからです。もちろん、地獄にいる人たちのためにも祈りませんでした。この人たちのためには祈りは無駄だからです。かれらが祈っていたのは、死者の罪が許されるためでした。そうしますと、祈りは天国と地獄のあいだの中間の状態にいる人のためだということになります。この中間の状態をカトリックでは煉獄と呼んでいます」。
牧師「でも、初代教会では、煉獄について、あまり話していませんね」。
ドン・ボスコは、教会の歴史を利用し、3世紀以後はもう疑いがないので、3世紀以前の教父たちについて話しました。かれは沢山の証拠を出しましたが、ここではそれを省略します。
その次に第5章に、離教教会のギリシア教会の証明をもち出し、第6章に、世界の沢山の民族を、そして第7章にプロテスタントもそのあるものは、煉獄のことを認めていることをくわしく説明しました。
プロテスタントの改革をはじめたルーテルは、カトリック教会から離れた当時は、煉獄の信仰を保っていて、「わたしは、煉獄があることを知っています」といっていまレた。
しかし、あとで煉獄についてのいろいろな謬説をとなえたので、トレント公会議は、これらの謬説を排斥しました。
カルヴァンも、最初は、煉獄の教義を鉄面皮にも否定していましたが、のちに、カトリック教会の伝統的な立場をみて、死者のために祈ることは古代から教会のならわしであり、古代教父たちも煉獄を信じていたと認めるようになりました。
英国教会も、最初は、死者のための祈りを保っていましたが、後にいろいろの説が出てきたので、問題をさけるために、誰でも自由勝手に考えてよいというようになりました。
ここで、ドン・ボスコは、他の有名なプロテスタントの断言を記録しています。これでドン・ボスコの第一の講話が終わります。
(続く)
◆3-7、煉獄についての聖ドン・ボスコの著書
ところで教父たちのことに移りましょう。ここで注意していただきたいのは、教父たちを何人かの独立した人として考えてはならないことです。また、迫害の時代に生きていた教父たちのことも計算に入れません。というのは、当時、教会は迫害に悩み、信仰箇条について、まだ問題が起きていなかったので、教会は、その信仰を明らかに示していなかったからです。でも、迫害の恐ろしい時代が終わると、教会の教えは、ますます公けに宣言されるようになりました。
そうなると、初代教会の時代からこのマカベ書は聖書として教会で読まれるようになり、カルタゴ市の第3教会会議も、また有名な聖アウグスティノも教皇聖インノチェンシオ1世(405年)も、聖ジェラジオ教皇も、ローマで70名の司教を集めて、この書を聖書正典として宣言しました(494年)。
教父たちのことはさておいても、プロテスタントでさえ、マカベの書を歴史的な事実を伝えるものとして認めているではありませんか。そうしますと、マカベの時代には、ユダヤ人が亡くなった人のために、その人の罪が許されるように、いけにえを捧げるのは正しいことと考えていたのです。まえに引用したヨゼフ・フラビウスが伝えるように、ユダヤ人たちは、自殺した人のためには祈っていませんでした。また、アブラハムのふところ、つまり救われた人のためにも祈ってはいませんでした。その人たちが確実に救われていて、祈りを必要としないからです。もちろん、地獄にいる人たちのためにも祈りませんでした。この人たちのためには祈りは無駄だからです。かれらが祈っていたのは、死者の罪が許されるためでした。そうしますと、祈りは天国と地獄のあいだの中間の状態にいる人のためだということになります。この中間の状態をカトリックでは煉獄と呼んでいます」。
牧師「でも、初代教会では、煉獄について、あまり話していませんね」。
ドン・ボスコは、教会の歴史を利用し、3世紀以後はもう疑いがないので、3世紀以前の教父たちについて話しました。かれは沢山の証拠を出しましたが、ここではそれを省略します。
その次に第5章に、離教教会のギリシア教会の証明をもち出し、第6章に、世界の沢山の民族を、そして第7章にプロテスタントもそのあるものは、煉獄のことを認めていることをくわしく説明しました。
プロテスタントの改革をはじめたルーテルは、カトリック教会から離れた当時は、煉獄の信仰を保っていて、「わたしは、煉獄があることを知っています」といっていまレた。
しかし、あとで煉獄についてのいろいろな謬説をとなえたので、トレント公会議は、これらの謬説を排斥しました。
カルヴァンも、最初は、煉獄の教義を鉄面皮にも否定していましたが、のちに、カトリック教会の伝統的な立場をみて、死者のために祈ることは古代から教会のならわしであり、古代教父たちも煉獄を信じていたと認めるようになりました。
英国教会も、最初は、死者のための祈りを保っていましたが、後にいろいろの説が出てきたので、問題をさけるために、誰でも自由勝手に考えてよいというようになりました。
ここで、ドン・ボスコは、他の有名なプロテスタントの断言を記録しています。これでドン・ボスコの第一の講話が終わります。
(続く)