『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
3 シャルルマーニュ(シャルル大帝)
1 ロランの歌
「熱心に、ほとんどたえまなく、境界のしかるべき場所に軍を配置して、サクソン族と戦いをつづけるいっぼう、徴しうるかぎりの兵力を集めて、スペインを攻めた。
ピレネー山脈を越え、行く手にある砦や城を残らず制圧し、自軍になんらの損傷をこうむることもなく帰途についた。
だが、しかし、その途上、行きと同じピレネー越えにおいて、バスク人の背信にいささか悩まされる仕儀(しぎ)とあいなったのである。
山あいをぬける道のせまさに、やむなく長い列をつくって軍を進めていたとき、山の高みにかくれひそんでいたバスク人たちが――実際、そのところには樹木が密生し、かくれひそむには絶好だったのだ――逆落(さかお)としをかけ、荷駄隊の最後尾に、また、殿軍として進み、先行するものたちを守っていた部隊に襲いかかった。
そして谷間に追いつめると、戦いをいどみ、これをみな殺しにし、荷駄を掠奪し、すでにたちこめた夜のとばりに守られて、大急ぎで四方に散った。
この場合、武装の軽さと、事件の起こった土地の地勢とが、バスク人たちを助けた。
これに対して、武装の重さと、地形の不利とが、フランク人たちをバスク人たちにくらべて万事において損な立場においたのである。
この戦闘で、王の家令エギンハルズス、宮廷伯アンセルムス、ブルターニュ辺境長官ロランズス、そのほか多数のものが殺された。
この背信の行為は、その場でただちに報復をうけるというわけにはいかなかった。
というのは、敵どもは、事をなし終えると、四方に散ってしまい、いったいどこに彼らを探したらよいのか、なんのうわさも残らないほどだったからである」。
これは、エギンハルズス(アインハルト)の『シャルルマーニュ伝』の一節である。
エギンハルズスは、シャルルマーニュの側近にあった書記のひとりだった。
ここに語られているのは、七七八年、フランク王国の王シャルル(ドイツではカール、イギリスではチャールズ)がスペインに侵入し、イスラム教徒を討とうとしたが、けっきょく、ナバール人とバスク人の居住地域を制圧しただけで帰国する途中、ピレネー山中でバスク人の襲撃をうけたという事件である。
公式の『フランク王国年代記』によれば、シャルルは、まずナバールの町パンプローナを征服し、ついでエプロ川沿いにサラゴッサにいたり、そこでイスラム教徒勢から人質をうけとって和をむすんだ。
そこからふたたびパンプローナにもどり、この町を「地表にいたるまで」破壊したあと、帰国の途についた。
その途中、のちの時代の伝承によれば、ピレネー山中のロンスボーというところで、この奇襲にあったのである。
おそらく十一世紀の末にできたとみられる、フランス語で書かれた最古の叙事詩『ロランの歌』は、この史実を題材にしている。
この叙事詩に登場するシャルルマーニュは、齢(よわい)二百歳を越す白髪銀髯(ぎんぜん)の老騎士である。
異教徒討伐の神命もだしがたく、彼はスペインにはいる。異教徒の王マルシルはサラゴッサに逃げこみ、和睦の使者を送ってよこした。
シャルルマーニュの甥のロランは和睦に反対する。
ロランの義父力メロンは和平派だった。
和平の意見が勝ちを占める。だれがサラゴッサヘの使者に立つべきか。
それは当然ガヌロンだ、とロランはいいはなった。
ガヌロンはこれを悪意に解し、ひそかにロランへの復讐を誓う。
サラゴッサにおもむいた彼は、マルシル王にロランを売り渡し、ピレネー山中ロンスボーでの奇襲のことを打ち合わせる。
帰陣したガヌロンは、フランスへの帰途、だれが殿軍をうけもつべきかとのシャルルマーニュの問いかけに、「わたしの後継(あとつぎ)のロラン」と答えた。
行軍はロンスボーの狭間路(はざまみち)にさしかかった。
二万騎の殿軍をひきいるロランは、イスラム勢十万騎が追尾してくるのを発見した。
ロランにつきしたがう親友オリビエは、角笛を吹いて本軍を呼び返せと説く。ロランはこばむ。
「ロランは猛(たけ)く、オリビエは賢し」と作者は歌っている。
ロマン・ロランの小説『ジャン・クリストフ』に登場するクリストフと、その思慮深い友人オリビエとの組み合わせは、明らかに『ロランの歌』を下敷きにしている。
この友人関係の対照は、さまざまなバリエーションのうちに、古くから文学によくえがかれてきた。
『ハムレッ卜』の場合もそうであり、『ドン・キホーテ』のサンチョもまた、オリビエの一変種とみてよいだろう。
さて、三度の攻防に、ロランの軍は、わすか六十騎を残すのみとなった。
いまは、ロランもとうとう救援をもとめて角笛を吹く。
敵の刃も傷つけえぬロランであったか、吹く息の強さにこめかみは破れ、口から血汐がしたたった。
ようやくにして敵勢をしりぞけたものの、ついに全員が倒れた。
最後にのこった大司教テュルパンも、ロランのために水を運ぼうとして力つきた。
ただひとりロランは戦いの野をさまよい、友の屍を探しもとめる。
この悲愴な叙述のうちに、叙事詩『ロランの歌』は終わる。
このあとに、角笛をききつけたシャルルマーニュが本軍をかえしてマルシルの軍勢と戦い、ロランの仇をうつという叙述がなおつづくのだが、それはつけ足しといってよいだろう。
つまり、『ロランの歌』は、エギンハルズスの記述にでてくる「ブルターニュ辺境長官ロランズス」を主人公とした、騎士の信仰と勇武の讃歌なのである。
本国に帰還した老シャルルマーニュを迎えたロランの許婚(いいなずけ)で、オリビエの妹オートは、兄と愛する人の安否をたずねる。
「妻にしようとわたしにお誓いくださったロランさまはどこに?」
老王は白髯(はくぜん)をしごき、涙を流した。
「いとしい妹よ、死者のことをたずねるのか。おまえには、もっといいのを世話してやろう。ルイだ。
これ以上のものはいないと言う。わたしの息子だ。わたしの領国を継ぐ男だぞ。」
オートは答えた。
「心外なお言葉です。ロランさまのなきいま、わたしが生きながらえるなんて、神さま、聖者さまがた、御使さまがたの御心にそむくことです。」そういうと、オートは気を失って老王の足もとに倒れた。老王は彼女を抱きあげ、死んだと知って、悲しみ泣いた。男の勇武をえがいた叙事詩の世界に、激しい女の情熱の色彩をそえる一瞬の情景である。
3 シャルルマーニュ(シャルル大帝)
1 ロランの歌
「熱心に、ほとんどたえまなく、境界のしかるべき場所に軍を配置して、サクソン族と戦いをつづけるいっぼう、徴しうるかぎりの兵力を集めて、スペインを攻めた。
ピレネー山脈を越え、行く手にある砦や城を残らず制圧し、自軍になんらの損傷をこうむることもなく帰途についた。
だが、しかし、その途上、行きと同じピレネー越えにおいて、バスク人の背信にいささか悩まされる仕儀(しぎ)とあいなったのである。
山あいをぬける道のせまさに、やむなく長い列をつくって軍を進めていたとき、山の高みにかくれひそんでいたバスク人たちが――実際、そのところには樹木が密生し、かくれひそむには絶好だったのだ――逆落(さかお)としをかけ、荷駄隊の最後尾に、また、殿軍として進み、先行するものたちを守っていた部隊に襲いかかった。
そして谷間に追いつめると、戦いをいどみ、これをみな殺しにし、荷駄を掠奪し、すでにたちこめた夜のとばりに守られて、大急ぎで四方に散った。
この場合、武装の軽さと、事件の起こった土地の地勢とが、バスク人たちを助けた。
これに対して、武装の重さと、地形の不利とが、フランク人たちをバスク人たちにくらべて万事において損な立場においたのである。
この戦闘で、王の家令エギンハルズス、宮廷伯アンセルムス、ブルターニュ辺境長官ロランズス、そのほか多数のものが殺された。
この背信の行為は、その場でただちに報復をうけるというわけにはいかなかった。
というのは、敵どもは、事をなし終えると、四方に散ってしまい、いったいどこに彼らを探したらよいのか、なんのうわさも残らないほどだったからである」。
これは、エギンハルズス(アインハルト)の『シャルルマーニュ伝』の一節である。
エギンハルズスは、シャルルマーニュの側近にあった書記のひとりだった。
ここに語られているのは、七七八年、フランク王国の王シャルル(ドイツではカール、イギリスではチャールズ)がスペインに侵入し、イスラム教徒を討とうとしたが、けっきょく、ナバール人とバスク人の居住地域を制圧しただけで帰国する途中、ピレネー山中でバスク人の襲撃をうけたという事件である。
公式の『フランク王国年代記』によれば、シャルルは、まずナバールの町パンプローナを征服し、ついでエプロ川沿いにサラゴッサにいたり、そこでイスラム教徒勢から人質をうけとって和をむすんだ。
そこからふたたびパンプローナにもどり、この町を「地表にいたるまで」破壊したあと、帰国の途についた。
その途中、のちの時代の伝承によれば、ピレネー山中のロンスボーというところで、この奇襲にあったのである。
おそらく十一世紀の末にできたとみられる、フランス語で書かれた最古の叙事詩『ロランの歌』は、この史実を題材にしている。
この叙事詩に登場するシャルルマーニュは、齢(よわい)二百歳を越す白髪銀髯(ぎんぜん)の老騎士である。
異教徒討伐の神命もだしがたく、彼はスペインにはいる。異教徒の王マルシルはサラゴッサに逃げこみ、和睦の使者を送ってよこした。
シャルルマーニュの甥のロランは和睦に反対する。
ロランの義父力メロンは和平派だった。
和平の意見が勝ちを占める。だれがサラゴッサヘの使者に立つべきか。
それは当然ガヌロンだ、とロランはいいはなった。
ガヌロンはこれを悪意に解し、ひそかにロランへの復讐を誓う。
サラゴッサにおもむいた彼は、マルシル王にロランを売り渡し、ピレネー山中ロンスボーでの奇襲のことを打ち合わせる。
帰陣したガヌロンは、フランスへの帰途、だれが殿軍をうけもつべきかとのシャルルマーニュの問いかけに、「わたしの後継(あとつぎ)のロラン」と答えた。
行軍はロンスボーの狭間路(はざまみち)にさしかかった。
二万騎の殿軍をひきいるロランは、イスラム勢十万騎が追尾してくるのを発見した。
ロランにつきしたがう親友オリビエは、角笛を吹いて本軍を呼び返せと説く。ロランはこばむ。
「ロランは猛(たけ)く、オリビエは賢し」と作者は歌っている。
ロマン・ロランの小説『ジャン・クリストフ』に登場するクリストフと、その思慮深い友人オリビエとの組み合わせは、明らかに『ロランの歌』を下敷きにしている。
この友人関係の対照は、さまざまなバリエーションのうちに、古くから文学によくえがかれてきた。
『ハムレッ卜』の場合もそうであり、『ドン・キホーテ』のサンチョもまた、オリビエの一変種とみてよいだろう。
さて、三度の攻防に、ロランの軍は、わすか六十騎を残すのみとなった。
いまは、ロランもとうとう救援をもとめて角笛を吹く。
敵の刃も傷つけえぬロランであったか、吹く息の強さにこめかみは破れ、口から血汐がしたたった。
ようやくにして敵勢をしりぞけたものの、ついに全員が倒れた。
最後にのこった大司教テュルパンも、ロランのために水を運ぼうとして力つきた。
ただひとりロランは戦いの野をさまよい、友の屍を探しもとめる。
この悲愴な叙述のうちに、叙事詩『ロランの歌』は終わる。
このあとに、角笛をききつけたシャルルマーニュが本軍をかえしてマルシルの軍勢と戦い、ロランの仇をうつという叙述がなおつづくのだが、それはつけ足しといってよいだろう。
つまり、『ロランの歌』は、エギンハルズスの記述にでてくる「ブルターニュ辺境長官ロランズス」を主人公とした、騎士の信仰と勇武の讃歌なのである。
本国に帰還した老シャルルマーニュを迎えたロランの許婚(いいなずけ)で、オリビエの妹オートは、兄と愛する人の安否をたずねる。
「妻にしようとわたしにお誓いくださったロランさまはどこに?」
老王は白髯(はくぜん)をしごき、涙を流した。
「いとしい妹よ、死者のことをたずねるのか。おまえには、もっといいのを世話してやろう。ルイだ。
これ以上のものはいないと言う。わたしの息子だ。わたしの領国を継ぐ男だぞ。」
オートは答えた。
「心外なお言葉です。ロランさまのなきいま、わたしが生きながらえるなんて、神さま、聖者さまがた、御使さまがたの御心にそむくことです。」そういうと、オートは気を失って老王の足もとに倒れた。老王は彼女を抱きあげ、死んだと知って、悲しみ泣いた。男の勇武をえがいた叙事詩の世界に、激しい女の情熱の色彩をそえる一瞬の情景である。