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8-16-4 イスラム帝国の完成

2024-03-14 14:05:45 | 世界史


『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
16 オスマン・トルコ
4 イスラム帝国の完成

 メフメト二世のあと一代おいて、セリム一世(一五一二~二〇)が即位したとき、イランには、シーア派(ジーイー派)イスラムを国教とするサハビー朝が成立していた(一五〇二)。
 シーア派とは、オスマンの国教たる正統派のスンナ派に対立する、異端の少数派である。
 セリムは、サハビー朝がハンガリーと通謀するのをおそれ、またオスマン領内のシーア派教徒が反乱をおこしたため、この正統派イスラムの敵サハビー朝に立ちむかった。
 かくて小アジア東部のジャー(皇帝)、イスマーイール一世の軍を撃破し、首都タブリーズを占領したのである(一五一四)。
 つぎに、セリムは、エジプトのマムルーク朝に鋒先(ほこさき)をむけた。
 マムルーク朝は正統派イスラムを奉じ、アッパース朝の子孫をカリフ(予言者マホメットの後継者で、イスラム世界全体の首長)にいただき、オスマン帝国のごときは成りあがりものにすぎぬとして、これを軽蔑していた。
 そこでセリムは、まずシリアに軍を進めて、ダマスクスやエルサレムなどを征服する。
 さらに南下してカイロを占領し、マムルーク朝をほろぼした(一五一七)。
 いまや、イスラムの聖地たるメッカとメジナとの保護権を獲得したのである。
 のみならず、このときセリムは、まったく名前だけの存在にすぎなくなっていたカリフから、その尊号をゆずりうけたといわれる。
 こうしてマホメットを継いだアブー・バクル以来、連綿としてつづいてきたカリフの位は、予言者とは血縁的にまったく無関係のトルコ人スルタンの手にわたった。
 オスマン・トルコのスルタンは、世俗的権力者たるとともに、正統派イスラム世界における精神的最高権威者カリフとして、北アフリカをふくむアラブ世界に君臨することとなったのである。
 それと同時にセリムは、その国内におけるシーア派教徒に弾圧をくわえた。
 オスマン帝国が、単にビザンチン帝国の継承者であるだけでなく、対外的にも対内的にも、かってのイスラム帝国アッバース朝の継承者、正統派イスラムの擁護者としての地位を確立するにいたったのは、このセリム一世のときからなのである。

メフト二世のコンスタンチノーブル攻略から始まったオスマン・トルコ帝国の拡大は、
セリム一世を経て、スレイマン一世の時世に最大領域に達した。

 セリム一世をついだスレイマン一世は、その半世紀にちかい治世(一五二〇~六六)の間に、ハンガリーに五回、オーストリアに三回、ロードス島に一回、モルダビア(黒海の西北)に一回、そしてイランに三回の遠征をおこなった。
 この数字は、セリムの時代に東方へむかっていたトルコの勢力が、その子スレイマンのときになると、くびすをかえしてふたたび西方へ発展するにいたったことをしめしている。
 スレイマンは、神聖ローマ皇帝ガール五世と対立するフランス王フランソワ一世とむすび、ヨーロッパヘ進軍した。
 ドナウ川流域のベルグラードを占領し、ブダペストの南方でハンガリー軍を破って、ハンガリーを支配下におさめる(一五二六)。
 さらに長駆してウィーンを包囲攻撃したが、これは失敗におわった(一五二九)。
 トルコ軍の活躍は海上でもはなばなしい。その艦隊は、イタリア半島の東南、イオニア海の入口で、スペイン・ベネチア・ローマ教皇の連合艦隊をうちやぶって(一五三八)、地中海の制海権をにぎった。
 このようにして、スレイマンの治世には、オスマン・トルコの三日月旗は、小アジア、バルカン半島はもちろん、ハンガリー、コーカサス、メソポタミア、アラビア半島から北アフリカにひるがえる。
 その艦艇はツーロン、マルセーユにまで進出するにいたった。
 スレイマンはあたらしい法典を発布したが、これはイスラムの聖法(シャリーア)に規定されぬ事項に関して規定したものである。
 よって、トルコ人から「カーヌーニー」(立法王)とたたえられた。
 オスマン帝国は、スレイマン一世のときに黄金時代をむかえ、イスタンブールにはイスラム文化の花が絢爛(けんらん)と咲きはこった。
 イスラム帝国は、アラブならぬトルコ人の手によって、ここに完成されたのである。




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