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5-5-3 カノッサ以後

2023-04-25 14:25:16 | 世界史
『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
5 ドイツ国王のカノッサの屈辱
3 カノッサ以後

 破門はとかれた。トリプールの決議は効力を失った。
 諸侯は教皇を裏切らなかったが、教皇は諸候を裏切った。
 ハインリッヒはただちにドイツに帰り、教皇の来訪か阻止した。
 いまや、ふたたび聖職諸候の支持は彼の側にあり、くわえて、ライン流域の諸都市が王権を支持していた。
 反国王派諸侯は、三月、フランケンのフォルヒハイムに集まり、シュバーペン候ルドルフを対立国王にたて、あくまで抗戦の構えにでた。
 ハインリヒ四世は、これを国王に対する反逆として、教皇に対し反逆者の破門を要求した。
 教皇は自繩自縛(じじょうじばく)におちいった。
 破門をといた以上、ハインリヒはドイツの正当な国王であった。
 ハインリヒの要求は正しい。
 だが、グレゴリウスは、じつに正直な理想主義者であった。
 カノッサでの免赦を自分の失政とみとめ、一〇八〇年の復活祭前の公会議において、ふたたびハインリヒを破門し、対立国王ルドルフをドイツの正当の王とみとめたのである。
 情勢は、いまやハインリヒの思うがままに動いた。
 教皇の再度の破門は不当であった。
 彼はただちに、六月、アルプスのブレンナー峠の南のブリクセンというところに、ドイツおよびロンバルディアの司教を集め、公会議を主催し、グレゴリウスの廃位を決議させ、対立教皇をたてた。
 一方、諸侯と戦って、十月、ルドルフを敗死させた。
 そして、さらに翌年には、軍をひきいてアルプスを越え、ローマを囲んだ。
 トスカナの女伯マティルダには、救援の軍を動かす力はなかった。
 こんなこともあろうかと、先年グレゴリウスは、ノルマンの騎士ロベール・ギスカールに対し、その南イタリア領有を承認し、教皇への臣従をうけいれていたのだが、しかしギスカールは、この主君の危機を横目にみて東ローマ帝国のバルカン半島領への進出計画に専念していたのである。
 グレゴリウスは孤立していた。
 一〇八四年、ハインリヒはローマ市を制圧した。グレゴリウスは市内の聖アンジェロ城にたてこもっていた。
 三月、ハインリヒは、彼のたてた対立教皇の手から帝冠をうけた。
 やがて、ようやく腰をあげたロベール・ギスカールの軍勢がローマについた。
 ハインリヒは戦いをさけてローマをひきあげた。
 ギスカールの軍勢は、ローマを荒らしたのち、グレゴリウスを擁して、ナポリ南方のサレルノにひきあげたのである。
 翌年三月、グレゴリウスはその地で没した。
 やはりハインリヒが勝ったのだ。
 皇帝の神政政治はみごとに守られた……。そう結論したくなる。
 だが、そう結論するには早すぎる。この段階ではまだ結論はでていなかったのである。
 その後、あいついで立った対立国王をくだしてドイツ諸侯に対する統制を回復したハインリヒも、ロンバルディア都市勢力の反抗に苦しめられた。
 グレゴリウスの意志をついた教皇ウルバヌス二世(一〇八八~九九)は、一〇九三年、ハインリヒの一子コンラートを対立国王に擁立し、ドイツの内乱を助長した。
 さらに、彼は、一〇九五年、聖地イェルサレム奪回の十字軍を提唱し、彼の母国フランスの封建領主層を動員して、この大事業をやりとげた。
 これは、じつに鋭敏な政治感覚の表現であった。
 いわば、これは、ヨーロッパの国際政局の指導権をにぎるものは教皇であることを誇示する一大狂言の演出にほかならなかったともいえるのだ。
 理想主義者グレゴリウスは、皇帝と理念の闘争をたたかった。
 現実家肌のウルバヌスは、まず、現実の世俗の権力者たちを動かしてみせたのである。
 ハインリヒはおのれの不利をさとった。
 彼は、聖地十字軍に参加することによって破門の許しを得ようとしたが、ウルバヌスはこれを拒否した。
 対立国王であった息子のコンラートが一一○一年に死んだのち、自分の後継者とみこんでいたもうひとりの息子ハインリヒもまた、敵陣にはしった。
 一一〇六年、破門された皇帝ハインリヒ四世は、失意のうちに死んだ。

 ちょうどグレゴリウスの後継者が現実政治家のウルバヌスであったのと対をなすかのように、ハインリヒ四世をついだハインリヒ五世もまた、抜け目のない現実政治家であった。
 聖職叙任権の問題は、一一二二年、彼と教皇カリスツス二世とのあいだに成立したウォルムスの協約で、一応の解決をみたのだが、これは、ある意味では、まったく政治的妥協の産物であったのである。
 この協約によって、ドイツ国王は、司教、修道院長を叙任する権利を放棄した。
 だが、その領地を国王の封建知行とみなし、これを授封する権利は確保したのである。
 しかも、ドイツ国内に関しては授封が叙任に先行するときめられた。
 つまり、国王が知行をあたえないかぎり、教皇は叙任を行なえないことになる。
 イタリヤおよびブルグントに関しては、この関係が逆になる。
 つまり、教皇の叙任権が優先するときめられたのである。
 かくてハインリヒ五世は、名を捨てて実をとったというべきか。
 ドイツ国内の聖職諸候の選任については、いぜんとして国王の統制がおよぶのである。
 だが、このことは、教皇対皇帝の理念のたたかいにおける皇帝の勝利を意味するものでは、けっしてなかった。
 むしろ、逆である。
 原理が慣行として運用されるということと、原理が否定され、慣行だけがかたちを変えて残るということとは、けっして同じことではない。
 現実主義を標榜する者は、しばしばこの点てあやまりを犯す。
 聖職叙任権の問題は、以後、現実政治の次元において、個々のケースごとに紛争の種を提供しつづけるであろう。
 だが、理念のたたかいは、ウォルムスの協約で終わった。
 ドイツ国王は、神政政治の原理を喪失したのである。
 「カノッサの屈辱」は、やはりドイツ国王の大いなる屈辱であった。


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