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7-4-3 学芸保護者

2023-09-16 05:53:37 | 世界史

『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年

4 フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――

3 学芸保護者

 

 鋭い光を放つ眼のほかには、この権力者を普通の老人から区別するものはなにもない。

 地味な服装に頭巾をかぶって、ボディー・ガードもつれず、なにかつぶやきながら、こきざみに町を歩くこのやせた男を、だれがフィレンツェ第一の実力者と思うであろうか。

 また彼はあまり人中(ひとなか)に出ること々好まず、暇があれば別荘に行き、野良着でぶどう畑や庭園の手入れに余念がなかった。

 「念仏では政治はできない」と、コジモは好んで口にした。

 彼は事にのぞんで冷静、沈着、合理的で打算に富んだ商人的な機略を示し、とくに難局には異常な粘り強さを発揮する。

 アルビッツィ家をはじめ、彼は自分に対立する者を、容赦なく追放したり、殺害した。絞首台にぶらさがった敵の姿を見せしめのため、画家に描かせたりしたが、弾圧の激しさについて忠告する人に、彼は冷淡に答えた。

 「フィレンツェが滅びるよりも、その人口を失うほうがよい。」

 そしていうまでもなく、徹底しているのは蓄財であったが、メディチ家本来の銀行業の活動範囲はますます広くなり、ヨーロッパのみならず、アフリカ、アジアにまでおよんだ。

 イタリア諸都市はじめ、コンスタンティノープル、カイロ、パリ、リヨン、ブルージュ、ロンドンなど、いたるところに経済網がはりめぐらされていた。

 これらの支店は商人たちとむすんで、商業、貿易にも手をだした。

 そしてメディチ家の貸付帳にはローマ教皇、フランス、ドイツ、イギリス、スペイン、ポルトガルなどの王侯貴族も名をつらねていたが、こうした貸し倒れの不安がないところと関係することは、きわめて賢明、有利なことであった。フランス王ルイ十一世は財政上の援助を感謝し、メディチ家の紋章に王家のゆりの花の紋を加えることを許した。

 ところで経済的活動のためには、世の中が平和であることが必要だ。

 あいにくイタリアの都市国家どうしは仲がわるく、分裂をつづけている。

 こうした状勢では十分なことはできないが、コジモはなるべく和平政策をとった。

 これには一四五三年、オスマン・トルコのためコンスタンティノープル(現トルコのイスタンブール)が陥落し、東ローマ帝国が滅ぼされ、これに脅威を感じたイタリア諸都市が一時的とはいえ、団結したという事情もあった。

 コジモは政権、金銭とともに、古代ギリシア・ローマの文芸や学問を愛し、「商売には貪欲で、仇敵(きゅうてき)に対して容赦しなかった」彼も、芸術家には寛大であった。

 名声と優越とをかちうるためにも、権力者には学芸上の「取り巻き」が必要であろう。

 一方、新しいルネサンス文化を代表する学者や芸術家は、それぞれの知的技術に生きるために、実力者たちの保護をうけた。

 ここにルネサンス独特の「学芸保護」が成立する。

 これは一面では、中世の束縛から解放された近代的知識階級が出現したことを示しているとともに、一面では、ルネサンスの文化は上からの保護を必要とし、その点で一種の貴族的なものであることがわかるであろう。

 コジモは東はコンスタンティノープル方面から、また西ヨーロッパ諸国から古書籍、古文書、貨幣、陶磁器、絵画などの学芸品や美術品を熱心に集めた。

 またブルネレスキ(一三七七~一四四六)、ギベルティ(一三七八~一四五五)、ドナテロ(一三八六~一四六六)などの大美術家はコジモのもとに身をよせ、寺院や教会や公共施設は彼の意によって装(よそお)いをこらす。

 ブルネレスキはすでにサンタ・マリア・デル・フィオレ(花の聖母寺)の大ドーム(円屋根)をつくっており、ドナテロは人体研究と鋳造(ちゅうぞう)技術をむすびつけて、銅像の流行をもたらす。

 またコジモが関係した建築はフィレンツェにとどまらず、パリやエルサレムにもおよんだ。

 このエルサレムに、コジモは巡礼のための宿舎をつくった。

 しかし彼は冷静にいった。

 「私はフィレンツェの人間をよく知っている。

 我々は五十年もたたないうちに、追い出されるだろう。

 しかし建物は残るだろう。」

 (これはのちに本当になった。)

 一四五三年、古代からつづいていた東ローマ帝国がほろんだが、このためギリシアの学者たちがイタリアに亡命し、またギリシア語の古写本がもたらされた。

 これらはすでに始まっていたイタリアにおけるギリシア・ローマの古典研究を、いちだんと発展させることとなった。

 そしてギリシア人学者たちは、とくにコジモに歓迎された。彼自身、「実業家に必要である以上に」ラテン語をわきまえ、ギリシア語にも少しつうじていた。

 そしてコジモは、若い哲学者マルシリオ・フィチーノ(一四三三~九九)にギリシア語を学ばせ、プラトンの作品をラテン語に訳させるとともに、このプラトンがアテネにひらいたアカデミー(学校、学術団体)にならって、フィレンツェ郊外のメディチ家別荘に「プラトン・アカデミー」のもとをつくった。

 むろん、これは古典学者たちのサークルである。

 プラトンはアリストテレスとならんで、古代ギリシア哲学の最高峰であるが、これまでの中世の学問では体系的で論理的なアリストテレスの哲学が重んじられ、どちらかというと文学的なプラトン哲学は軽視されていた。

 いまそのプラトンが取上げられたことは、アリストテレスの「中世」がそれだけ後退したともいえよう。

 そしてフィレンツェのプラトン・アカデミーは、ささやかな集まりではあるが、市民たちに知的雰囲気を満喫させるとともに、イタリアにおけるプラトン復興の中心ともなった。

 コジモは古典学者たちを保護したが、メディチ家の東西にわたる経済活動は同時に古写本の収集につながった。

 これは彼の孫ロレンツォにうけつがれ、メディチ家図書館に発展する。一四六四年八月一日、この「商人王」、フィレンツェの「無冠の帝王」は実務家らしく、あとのことを家族にこまごまといい残し、七十五歳で世を去った。一説によれば、プラトンの『対話篇』に耳をかたかけながら、息をひきとったという。

 彼の墓には、「祖国の父」という墓碑銘(ぼひめい)がきざまれた。

 しかしこの「祖国の父」がメディチ家の権勢を世襲(せしゅう)にするため、すなわち息子ピエロに権力を譲るため、一四五八年、傭兵(ようへい)隊をだきこんで市民集会を左右し、反対者を共和国に対する陰謀の罪で弾圧していたようなことを、忘れてはなるまい。

 



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