3月: 20年ぶりにIBM大和研究所長補佐、Mさんと再会 たまプラーザ
IBMのR&D研究所長の補佐だったMさん。僕がIT部長をしていたころ、研究所長補佐の部屋にぶらりと入り込み、馬鹿話をしてリラックスしていたのが、Mさん。
あれから20年。会いたい、会いたいとお互いにいいつつ、お互いの健康の問題などで2年かってやっと実現。彼の自宅に近いたまプラーザの駅で待ち合わせたが、一目でMさんを見つけた。彼もにこにこしながら、近づいてきた。分かんないかもしれないぞ…と言っていたのは、全くの杞憂。
11匹もいると思っていたシュナウザーは実は1匹で、あと10匹はシェルティーだったとか分かって、大笑い。20年間の誤解が解けた。
二人ともシュナウツアーが大好きで、そんな話をし、二人の距離はまるで昔と一緒。 あっという間にタイムスリップして、1990年当時と同じ距離感で、話が出来るようになった。親しい友達の特権だろう。
僕は、遺伝性の心臓病を持病に持ち、彼は、心臓血管系の病気の経歴の持ち主。今後、再発は無いと保証されているわけではない。フォローアップして、悪い状態を先取りして、手を先に打つしかない。歳は少しずつ進んできて、気がつくと、歳とっている自分を発見して、あっと思う。
カウンセラーの悪い癖で、最後に人生での自覚する悔いなどを話題にしたら、しばらく考えていらして、そんなものは僕には無いなと言われた。Mさんの、あったかく人を包み込む明るさは、ここからきているのだと納得した。
今度は何時会えるかな…。

<Mさんと>
9月:20年ぶりにIBM大和の元管理部長、MSさんと会う 横浜高島屋
Mさんに会ったのに続いて、前から会おう会おうといいながら、延び延びになっていたMSさんと、やっと会えた。彼とは、僕が大和IT部長の頃、外部監査で、有名なプライス・ウオーターハウス(PW)の監査を受けた時に、共に戦った戦友。
どう戦ったかというと、PWの監査人が、what if, what if の条件を積み重ねて、大和の管理システムの脆弱さを中間報告で指摘してきた。とんでもない。MSさんと、僕は作戦を練り、「三つの条件を一人の人が設定できるわけではないし、その同時性も、担保するのは厳しい環境だ」と反論した。これが戦い。
結果としては、PWの監査人が折れて、最終報告書では、若干の危険があると述べるにとどめてあった。「改善命令」か「改善勧告」がPWから出ていたら、それに応えることをIBM本社から求められ、不要なシステム変更とか、進捗状況報告が必要になっていただろう。それを、二人で戦って阻止したわけだ。
動物の感情とか思考が信じられないとの言葉を漏らしたMSさん。また、動物の素晴らしさを話してみたいです。また会いましょう。

<MSさんと一緒だった大和ビル>
12月:25年ぶりに元IBM藤沢工場長、KNさんと会う 大磯プリンスホテル
僕のIBMでの経歴の中で、一番救われた上司だったKNさん。
どこかで書いていると思うけれど、僕が35歳の頃、課長としての僕の失敗、酒気帯び自損事故を失敗と認め、即、僕を課長から首にし、しかし、そこからの再起を許可してもらった恩人。彼がいなかったら、僕は、そこから這い上がることは出来なくて、その後のIBMの素晴らしい日々を送ることはできなかっただろうと思っている。
約3年間のペナルティーボックス入りは、僕に、それまでの僕の仕事ぶり、部下との関係の問題点を気づかせてくれた自省の時期だった。課長を離れて、彼の言葉通り、マイナーペナルティー(アイスホッケーの罰則を思い出していただくと、よく分かります)で彼の補佐をやらせてもらった。
そこから、もう一人の僕の救い主、社外のO先生のコーチングを受けながら、人のパーソナリィテーの研究をはじめたのだ。それが、僕の第二の人生の仕事になっていった。この意味でも、KNさんには、大きな恩義を感じている。
カスケットリスト(棺桶リスト)に乗っけて、早くからお会いできたらと思い続けていた僕。賀状のお付き合いは、それこそ25年以上、続けてきた。彼の癌の再発もなく、ゴルフを再開されていると賀状で知り、是非お会いして、積年のお礼を申しあげたいと思ったわけだ。
彼は胃がんで、胃の全摘出をされている。8歳年上でもあるし、何所で会おうかと迷った。彼は小田原の二宮にお住まいだ。昔よく知っていた藤沢の町も、今は全く土地勘がない。かといって、二宮、小田原には自信の持てる店がない。最後に思い付いたのが、個人でも、仲間でも使っていた大磯プリンスホテルだった。

<KNさん>
窓の外に広い相模灘を明るく見ながら、嬉しい時間を過ごすことが出来た。彼も、誰にも内緒だった話などを披露してくださり、新しい発見があったりもした。僕は知らなかったのだが、日本で初めての多品種少量生産の集積回路、自動組み立てを決めたのが、彼だった。
僕は、アメリカ・テキサス州のオースティンまで調査に出かけて、目的に合ったアプリケーションを見つけ出した。そして、実質的なシステムとして導入したのが僕だった。共通の達成感のある仕事の記憶がよみがえった。
そのプロジェクトで、僕がドンドン金を使うので、ひやひやされていたと聞かされた。当時の僕には、そんな頓着はなかった。周りが見えない癖が出ていたのだ。
これからも、連絡を取ってまたお会いすることにして、大先輩に車で大磯駅まで送ってもらった。その車の中で、鳴っていたのはモーツアルト。これも発見だった。