毎年の年賀状は、ご存命の証。
この4月、たてつづけに訃報に接した。うれしいものではないが、神様の考えられた計画だから、「造られたもの」から文句を言っても始まらない。その人がこの世界にいないことを思い、自分との接点を考える時間を持つしかない。
一人は、I社の大和研究所で僕がIT部門の責任者だった頃の上司、当時の研究所長のYさん。

フェースブックの「友達」でもあり、賀状のやりとり以外にもメールでコンタクトしていた方。I社を離れれてから、外資のIT関係の会社の社長をいくつかやってらしたが、ある日突然、大阪の音楽SA大学の教授としての挨拶状が来た。とても、普通では考えられない転身だった。なんだ…と思った。
クラシック音楽の専門家は、総じてITの世界からは遠いもののようだ。一方、才能はありながら、それだけでは生活していくには世界が狭すぎるようだ。彼は、アメリカのビジネススクールも出ているから、新しいジャンルを音楽の世界に持ち込んだ。それは、音楽家とビジネスとをITを使って結びつけ、音楽家の生活の基盤を広げようという新しい考え方だった。
4年ほど、「ITを利用して音楽家がビジネスをする」にはどうやって行けばいいのかを自分で考えられて、学科を立ち上げた。そして、初代の教授になった。若い学生たち(とくに女子学生)と楽しく、時には羨ましく思う世界を切り開かれて、音楽家がITを使ってビジネスを起業するケースも出てきた。そう、新しいジャンルを築かれた。
直接会って話したのは、一昨年(2013)の銀座の十字屋さんで開かれたビオラの演奏会に招待された時だった。若い人たちに囲まれ、老いを知らないエネルギッシュな動きをされていた。もちろん、若い人との接点を失いつつあった僕は、本当に羨ましかった。
今年は、年賀状がないなと思った。フェースブックの近況も少なくなっていた。どうしたのかなと思ってはいた。メールを打ったけど、返事は来なかった。僕より若い方だから、また別のプロジェクトでも立ち上げるのに忙しいのかなと思いながら、時間が経った。4月になって、奥様から、一年以上の闘病の末、3月に亡くなられたと知らせが来た。やはり…と思った。
彼は、仕事上のみならず、私的にもお世話になった人。僕の亡くなった親父も…だ。親父の遺作となった500号油絵、櫻を研究所の社員ルームへ寄贈するのを快諾して頂いた方でもある。自分でも楽器をやられたから、芸術に対する考え方が、柔らかく広かったのだろう。

<老櫻 常照皇寺>
奥様に、Sympathy Card を書いて、お礼とお悔みを言うしかなかった。友人リストの一人が消えた。
続いて届いたのは、いとこの節ちゃんの訃報だった。妹のWKちゃんが、しょっちゅう、大津まで出かけて面倒を見ていた。ホームに入って、ヘルパーさんの手を借りながらひとりで生活していらした。
彼女のことを詳しく知ったのは、妹のWKちゃんが「聞き書き」というボランティアの活動として、節子ちゃんのことを一冊の小冊子に書き残して発行していてくれたからだ。僕と同じころに、節ちゃんは若い時期を東京で過ごし、若手ファッションデザイナーとしての経歴を踏み始めたのが1968年とある。1964年にいとこ会があり、そこで直接会ったのが最後だった。
「聞き書き」を読んでWKちゃんに話を聞いてみると、竹節子は若手デザイナーの登竜門、日本デザイナークラブ ヌーベルコレクションで「伊藤茂平賞」と、「装苑賞」を1968年にダブル受賞し、日本での女性用ファッションデザイナーとして「最高に輝いた時」(聞き書きのタイトル)を持ったようだ。

その後、同じコレクションで大賞の「NDC賞」も取られ、日本のデザインの開花を助ける貢献をされたようだ。土佐人の開放的な、活動的な活躍の成果だったのだろう。
WKちゃんが企画している今度のいとこ会、「節ちゃんとのお別れ会」が節ちゃんとの最後の接点になるだろう。元気だったら、生きた本人との再会を楽しめたかもしれないのに、神様は別の決断をされたようだ。
この拙文を節子さんにささげるとしよう。
明日は我が身。準備は万端整っている。
カスケット・リスト(棺桶リスト)にのっけた、やりたいことをどんどん進めよう。会いたい人にドンドン会っておこう。神様は、どういう計画を持たれているのかは知る由もないのだから。