イタリアの山の思い出はいろいろあるが、一番心に残っているのはドロミティ山塊。ドロミティとの初めての関わりは、僕がミラノに最初に赴任した頃だから、もう40年以上の昔になる。

<サッソルンゴ>
あまり知られていないが、ドロミティは二つの山塊から成っている。イタリアで二番目に長い川、つまりアルプスから、ヴェネチアの近くのアドリア海に流れ込む北から南に流れるアディジェ川の西側が、ドロミティ・ディ・ブレンタ。東側がよく知られるいわゆるドロミティだ。ここは3,000m以上の山が18峰もある山塊だ。

<TABACCOの東部ドロミティの地図>
東側の、いわゆるドロミティを中心とした体験を書いてみる。
ドロミティには、合計3回くらい旅している。
最初は、ドロミティ→オーストリア・ザルツカンマーグート→ドイツ・バイエルンへの10日間の旅の最初の目的地とした時だ。日本にいるころからドロマイトと呼ばれる苦灰石(くかいせき)が雨に削られた、尖塔のようになった山塊は知っていたから、見たことのないその山容は魅力的だった。
ミラノから3時間でヴェネチア。さらにヴェネチアから谷を登っていく。そしてついた町が、東ドロミティの中心地、コルティナ・ダンペッツォだ。そのころは高速がなかったから、ヴェネチアから3時間はかかったと思う。コルティナは美しい町で、四方をドロマイトの高い峰に取り囲まれている。北には大きな石の塊、クリスタッロ、東にはソラピス、西にはトファーナなどの岩山が背伸びをしている。
最初の時は、コルティナに一泊だけして、ドビアッコ、ブルンネル峠からオーストリアのインスブルックに向かったから、ドロミティは、ほとんど通り抜けたという印象だけだ。
コルティナの印象が残っているのは、二回目の時。それでも20年も前の7月だった。やはり車でミラノからヴェネチア、そしてコルティナへの道を走った。
コルティナは、いわゆるドロミティ街道と呼ばれるドロミティ横断路の東の出発点で、僕の目的地だったオルティゼイを経て、ドロミティへのアクセスの西の町、ボルツアーノまでは120㎞もあるドロミティ東西に走る街道だ。ドロミティは、この道から分岐した沢山のアルペンロードを持っていて、それらがみんな、訪問者を楽しませてくれる。
コルティナからは、眼前に大きなマスのクリスタッロがそびえ、美しい町を見下ろしている。僕たちは、ポステ(郵便局)広場に面したコルティナの中心のホテル、アラスカに3泊した。

<ホテル アラスカ>
ここからのアクセスで一番便利なのは、ソラビスへのロープウエイだが、僕たちは、車を転がして、ミズリーナ湖まで行ってみた。そこからは、有名なトレチメへ(三つの峰)へのアクセス路になるが、山歩きの準備はしていなかったので、ミズリーナ湖で車を止めて林の中のトレッキングでドロマイトの山々をゆっくりと楽しんだ。西ドロミティに比べて、塊が大きな山が東側のドロミティの特徴だというが、巨大なマスを感じることができる。
ミズリーナ湖の側の売店で土地のものを探してイタリア語で話しかけたら、店の人がびっくりして、イタリア語をしゃべるジャポネーゼ!と驚かれた。そのころは、まだ日本人の観光客は少なく、珍しい感じも残っていたからだろう。僕はミラノに住んでいたことがあるのだと話したら、あっそうという感じで優しく接してくれた。旅人にとっては、土地の人の優しさはとてもうれしいものだ。

<ミズリーナ湖>
ポコルまで登って、振り返ると、コルティナの町とクリスタッロが目に飛び込んできた。ミラノから400㎞、やっとコルティナに来たのだと自分に話しかけていた。

<コルティーナとクリスタッロなど>
しかし、旅では思わぬことも起こる。最初の夜、食事のためにアラスカのレストランに入っていくと、カメリエーレ(給仕)が入口のすぐ側のテーブルに座らせようとした。店内を見渡すと、窓際のいい席が空に空いていた。あそこに移ると言ったら、ムッとされた。言葉に出なくても、ボディランゲッジが、その感情を表していた。おそらく、生意気な日本人!と思っていたに違いない。どこかで、東洋人に対する蔑視の気持ちがあったのだろう。昔は時々、そんな経験をした。一番嫌なのは、チニーゼ(中国人)と囁かれることだった。一般的に、中国人は素行に問題があるかのように受け取られていたのだ。
美しい高級別荘地のコルティナを出発して、ポルドイ峠に向かう。この道は、狭いカーブだらけの激しい上りの山道だった。オペルの1300㏄のワゴンは、悲鳴を上げながら、限りない坂道をエンジンを唸らせながら登っていく。高度は上がって行くにつれて、眺めは素晴らしい。

<ポ<ポルドイ峠への上り>
パッソ・ポルドイは、ドロミティ街道の最高点、2,239mの峠だ。360度見渡すと、限りなく高い峰が続いて見える。言われているように、西側にはギザギザ山や尖塔が多く、登ってきた東側には、巨大な岩の塊の山が多い。同じドロマイトでも、成分が違うらしい。
パッソ・ポルドイで一泊して、翌朝、これが見たくてこの旅を計画したマルモローダ山に向かう。途中、カナゼイで、南チロール特有な不思議な木造建築を見て歩く。白壁が、まるで日本の古民家のようでもある小さな町だ。南チロールという呼び名は、イタリアとオーストリアの古い大戦の生み出した産物でもある。手放したこの地を、オーストリアはチロル地方と呼んでいたからだ。会話はドイツ語のほうが、得意なようだ。

<フェダイア湖>
カナゼイから、マルガチアぺラに向かう。途中で、美しい小さなフェダイア湖を発見。あまり知られていないうれしい存在だった。そして、マルガチアぺラ。ここから、ゴンドラでドロミティの最高峰、3,342mマルモラーダに登るつもりだったのだが、僕の下調べが不完全で、ゴンドラが休止中だった。シーズンの直前で、整備中だった。がっかり。恨めしそうに頂上駅を見上げるぼくを、カウベルを付けた大きな牛が寄ってきて、ガランガランと慰めてくれた。

<上空からのマルモラーダ:Google Street Viewより>*1
仕方がない、パッソセッラを超えて、ヴァルガルデーナの懐かしいオルティゼイに向かう。
オルティセイは、僕のお気に入りの村。ガルディーナ谷の中心地だ。ゴンドラで登れる有名なシウージ高原の麓にあるチロール特有の文化のある町だ。泊ったシャレーはワルター。経営者のドイツ系の血が多いと思われるご夫婦に温かく迎えられうれしかった。

<オルティゼイ>
ワルターの隣のシャレーに住むご夫婦とも村の通りで知り合いになり、一緒に村を案内してもらった記憶もある。

<オルティセイの村>*2
オルティゼイからは、ギザギザ山が見えるセチューダまでのゴンドラも出ているから、シウージを含めて3日間、山を見て、歩いて、遊ぶには最高のロケーションだった。
こうして、記憶に残っているドロミテ街道の旅は終わった。
実は、この旅のもっと前に、僕はオルティゼイを訪れていた。いつのことだったか、誰と一緒だったのかは、全く覚えていない。しかし、オルテイゼイにひかれて、今回、目的地に選んだのだから知っていたのは確かだ。また、帰りのボルツアーノで、前と同じところで道を間違え、グルグル回ったのを明確に覚えているから、オルティゼイ~ボルツアーノは確かに二回は走っているのだ。
この前のオルティゼイの滞在の時も含めて、残念ながら有名なアーヴェント・グリューエン(赤い山肌)は見えずじまいだった。これが、残念な残照ともいえる。日本では見られない、いや、ヨーロッパアルプスの他の地域でも見られない、ドロマイトの山々は、ユニークだ。
P.S.
クレジット情報
*1:マルモラーダ Google Street View をお借りしました。
*2:オルティゼイの街 Pug Girlさんのの作品をお借りしました。
ライセンスは、Creative Commons 2.0