M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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講義を受けに大学に

2019-03-17 | エッセイ

 

 久しぶりに、金沢八景駅の改札を出た僕は少し興奮していた。

 

 <金沢八景駅 by 京急>

 

 この前、ここで降りたのは、2017年12月だから、1年2か月ぶりということだ。あの時は、関東学院大学の「イタリア都市探訪」という講座に3か月ほど通っていたから、懐かしい駅でもある。 

 長い間、工事中だった八景駅もおおかたがた完成し、線路の橋上駅の改札口から、山の方へも、海の方へも簡単に出られるようになっていた。さらに、シーサイドラインにも、同一平面のペデストリアンデッキで繋がっているから、とても便利になったと言えるだろう。 

 今回は、陸側の横浜市立大学(YCU)に行くために、この駅で降りることになった。YCUに行くことしたのは、ここの大学院、「都市社会文化研究科」の4名の准教授たちが開催する、アドバァンスト・エクステンション講座、『「他者」とはなにか?』という講座に出て、新しい社会観を開拓するためだった。 

 大学は土曜日ということもあって、学生の姿はほとんど見えず、静かなたたずまい。

 <横浜市立大学 金沢キャンパス> 

 もともと、パーソナリティ&コミュニケーションのTAカウンセラーをやっていた僕は、日ごろから、僕には理解できない現代の若者たちの世界・社会観に興味を持っていた。その理解のヒントでも得られればと、この講座に応募した。特に、社会心理学的に、若者たちをどう理解すればいいかを模索していたからだ。

 

 <モラトリアム時代の人間> 

 根っこには、僕に大きな影響をあたえた、小此木圭吾の「モラトリアム人間の時代」という本(1978年初版)の存在がある。彼は精神分析家、精神科医で、そのころの世代の若者をモラトリアム(大人となるまでの猶予期間にいる存在)と定義していた。僕には、とても納得できた。では、今はどうか…というのが、基本的な参加の動機だった。

 <講座概要> 

 今回の講座は、「他者とは?」をキーワードとして、4つの異なった視点からの考察を聞き、議論するものだった。4つの分野とは、心理学、社会学、歴史的政治思想、及び、イランの女性史・教育史と幅広い。 

 開始前に配布された資料を眺めてみて、ああ、これでは深い話は聞けないと思った。4講義とその後のディスカッションで、計3時間のコースだ。休みなどを入れると、各講義、30分しかない。しかも各講座とも資料が多い。パワーポイントの画面をコピーしてあるのを数えてみたら、心理学で49頁、社会学で18頁、政治思想史で19頁、列強とイランの女性史では32頁もあった。講義の前に目を通しておこうなんて、全く不可能だった。

 

 <ハンズアウト:4講義分で118頁、読めなくて当たり前> 

 窓のある教室で、プロジェクターとポインターを使った講義が始まった。明るいから、レーザー・ポインターの位置がわからず、先生が画面の何処を指しているのかを懸命に見ながら、自分の資料にメモをしていく。でも時間がないから、先生は超早口。大学では、普通90分で1コマだと思うが、そこで投げる量のデータを30分で投げ終わろうとするのだから、どだい無理。結局、自分でメモをとる時間は無かったから、持っていたマーカーで重要な点に色を付けるのがやっとだった。 

 しかも、4講座全体を通しての「他者」の共通定義がないようで、各先生は自分の定義で、「他者」を語る。聞いている方にとっては、定義は何だと迷いながら、30分の講義は、すっ飛んでいく。アイコンタクトも取れないから、先生だって、我々がどういう状況で講義を聞いているかを知ることもない。ダメだとあきらめて、焦点だけを探り当てることに切り替えた。 

 順序は狂うが、3番目の講座では、共同体の中の自分vs他者を、その共同体の寛容さと捕らえて話された。4番目の講座では、西欧列強を他者ととらえ、イスラーム社会、特にイランの女性への他者のインパクトを話された。 


 結果的には、僕にとって意味があったのは、1番目の講義、心理学的に見た自己と他者が相互構成的で、他者がいて自分がいるという内容と、2番目の講義、社会学的に見た(自己)は、どう他者と向き合っていくのか(いくべきなのか)をテーマに、監視カメラの例を導入部として語られた講義だった。 

 この中で、T先生は、社会の動きと自己との関係で、次のことを話された。 

 ・他者に見られないこと = 自分が存在しないこと

 ・自分の存在意義を支えてくれる他者

 ・他者の不透明性が上がり、自己にとっては液状不安(液状化不安?)が起こり、

  自分が崩れていくかのような恐怖感を持つ若者たち

 ・異質な他者のグループと同質の他者のグループが存在し、前者を排斥し、

  後者に引力を感じる属性

 ・困難と制約となる他者 vs 自己に意味を与え、喜びを与えてくれる他者

 ・自己と他者の両義性がある 

 そして、これからの若者はどうなって行くのか分からないと話された。この問題提起は、非常に興味深かった。今の若者たちに対して僕が持つ感覚とも、全く一致していた。

 

 最後のQ&Aが終り、先生方が席を立たれたので、僕は慌ててT先生を捕まえに前に走った。 

 最近、僕は、モラトリアムの期間が長くなっているのではないかと思っている。つまり自己のアイデンティティが確立していない学生が多いのではないか、これが先生の言う液状化不安ではないかと声をかけた。先生も、流動化、不確実が増大している学生の現状を話され、彼らは今後、どうなっていくのだろうかと不安を持っていると述べられた。

 

 <「液状不安」と不透明化する「他者」:T先生の資料の1ページ> 

 いろいろなデータを見ると、僕にはパラサイト・シングルの期間が長くなり、結果として、モラトリアムが長くなり、アイデンティティの確立が遅くなっているように見えると話した。 

 例えば、2014年の「25~35歳の人口に占める、親との同居未婚者率」では、日本は世界で7番目の42%に達したと言われている。つまり、自立が出来ていない大人が4割もいるということだ。この状態は拡大し、悪化しているわけだ。 

 さらには、「出生動向調査」(厚生委労働省)によると、30歳代の

  男性の童貞率 2002年:24.8% → 2015年:26.0%   +1.2  

  女性の処女率 2002年:26.3% → 2015年:32.6%   +6.3 

 等がある。こう見てくると、やはり、現代の若い年代の人たちのモラトリアムの時間は、さらに長くなり、セックスもできない大人になり、結果、アイデンティティの確立などは、さらに遅くなってきていると見える。 

 一方、自分の周り、つまり他者との関係での距離感が取り切れないので、成蹊大の野口教授が言う、「コミュ力」、つまり他者への批判や、対立への強い不快感を避ける強い力が働き、自己を埋没させていくのではないかと、T先生に述べてみた。 

 こんな会話を交わして、若者たちは容易にはエリクソンの言うアイデンィティを持てていないし、T先生の言われる「液状化不安」に、僕は共感出来た。

 

 <YCUスクエア> 

 読む、聞く、同時に理解する、メモを取る、自分の意見を言うというようなことを最近やっていなかったから、僕の頭は疲れ果てて、その夜、グッスリと寝てしまった。 

 冷静になって考えると、こんな種類の出会い、議論ができる機会を持てたことは、とても楽しいことだった。こんな種類の議論から、僕は何十年も遠ざかっていた自分を知った。またの機会があればと、願っている。



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