1903年生まれの親父が87歳でくたばってから、もう26年になる。
若いころは、僕と確執のあった親父だったけれど、自分のカスケットリスト(棺桶リスト)を作って自分の歴史を整理していると、やはり親父の絵のことを書いておかなくてはならないと思う。
所用があってアメリカ大使館に行ったついでに、親父が描いた「霊南坂教会」の絵の写真を持って、霊南坂教会を訪ねたことが始まり。アメリカ大使館のスペイン風の白い壁を右手に見て、霊南坂を登りきった丘のてっぺんにある教会で、建て替え中のホテル・オークラにも近い。

<霊南坂教会1935年>
1935年に親父が描いた霊南坂教会堂はモダンなレンガ造りになっていた。中に入って、親父絵の写真を見せて、この絵があるかどうかを聞いてみた。残念。いろんな倉庫を探してくださったけれど絵は無かった。親父の絵は、建て替えられる前の、辰野金吾が1917年に設計した木造の霊南坂教会を描いていた。
そんなことがあって、東京に残っている親父の絵を訪ねてみうようと思い立った。横浜でも描いたらしいけど、データがない。親父は戦前、「教会の德山」と洋画壇で教会の名手として知られた存在だったようで、いくつか写真が残っている。
そのなかに本郷の教会がある。訪ねてみることにした。秋の空が広がった本郷。ここは、僕が生まれた物理的な故郷でもある東京大学医学部付属病院に近い。
小ぶりな教会だった。尖塔は親父の絵のような形をしていた。ここに間違いないようだ。教会だから、開かれた世界だ。玄関ホールで靴を脱いでスリッパに履き替えて頭を上げたら、その正面に僕が探していた親父の絵があった。
あっと息をのんで近づいてみる。思ったより小さな絵だった。ダウンライトに照らされて、その絵は80年の歴史を僕に見せてくれた。

<本郷の教会 1934年>
この教会の建立者、アメリカ人の司祭が東大生への布教を目指して1903年に建てられたと聞く。それは、ちょうど親父が生まれた年だ。そして、1934年に当時の牧師から「教会の德山」と呼ばれていた親父に絵にしてほしいと依頼があったようだ。
親父の巍(たかし)の“tacashi“のサインも見え、探していた絵だと確認できた。僕の鼻に熱いものがフッと湧いてきた。僕自身が驚いた自分の反応だった。うれしかったのだろう。
この絵は戦前の建物で、奇跡的に残った十字架以外、すべて東京大空襲で燃え落ちたという。その後、再築されたのが今の教会だ。デザイン的に戦前の面影を残した美しい木造建築だ。
なぜ、親父の絵は戦火から逃れたのだろうか。資料によると、この絵を、アメリカに帰国されるアメリカ人司祭に記念として日本の牧師が贈られたとある。そして、戦後、教会の再築の時に、アメリカから逆にお祝いとして送り返されたという。この絵は、アメリカと日本の間を、戦火を逃れて往復したわけだ。数奇な幸運の運命を刻んできた絵だった。

<現在の教会>
会堂の扉を開けると、パイプオルガンの響き、心が落ち着く懐かしい音色だった。自分の世界に浸れると、演奏者は自分自身の時間を紡いでいらした。やわらかな音色は、教会にふさわしい。
秋の銀杏の特異な臭いに満ちた本郷通りを歩いて、東大の正門からキャンパスに歩み入った。目的は、僕が生まれた東京大学医学部付属病院の一番古い建物を、写真に撮っておきたかったからだ。

<東大付属病院>
しかし、残念。その古い小さな煤けた色のコンクリートの別館は取り壊され、工事用のプレハブ小屋にとってかわられていた。残念。もうせん見たときに写真を撮っておくべきだった。
でも気持ちのいい一日だった。
P.S.
親父は、飯倉の鳥居坂教会も描いたと言っていた。しかし、手掛かりはない。これはあきらめるしかないだろう。

<現在の鳥居坂教会>
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