ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

聖書に見る疫病の過去・現在・未来。

2021年01月18日 | 立ち止まって考えること

, 今、私たちのを生活をかき乱している大きな問題、コロナ。

 さまざまなところで、多くの人を巻き込み、苦しめ、社会問題になっています。

 同時に、それぞれの個人を、かつてないようなプレッシャーの前に立たせています。

 過去に何度も人類を脅かし、歴史を変えさえした疫病、21世紀になって、また、世界の前に立ちはだかっているのは驚くべきことです。

 聖書は、疫病についての記事にあふれています。聖書が疫病について何を語っているか、いつもの松本牧師の解説を、ご覧ください。

 

 

 

【終末論】聖書に見る疫病の過去・現在・未来。世の終わりはもう来たの?

 

 

 

 

 

        

 

        


新年のご挨拶

2021年01月01日 | 立ち止まって考えること

 あけましておめでとうございます!!

 

 旧年中は、コロナコロナで大変な日々でした。皆さまは、感染の脅威をどのようにしのがれたのでしょうか。病気感染はもちろんのこと、あらゆるところでさまざまな余波が巻き起こったようです。

 最悪の高波をかぶった方々、なんとか最悪は免れたけれども、見えない損失や漠然とした不安に日常をかく乱されてしまった方は多かったと思います。どちらかと言えば平時はお花畑気分のさとうも、かなり参った時期がありました。

 

 ★★

 

 さて、教会では、今年も元旦礼拝がありました。とはいえ、会堂礼拝にZOOMを併用して、いずれも少人数でした。じっさいに人と会わないようにしているので、代わりに、電話、ラインやフェイスブックのメッセンジャー機能が活発になりました。ツイッターも始めてみましたが、まだよくわかっていない。

 理解が追い付かないのに、どんどん新しいことに慣れなければいけないので、どれも消化不良です。今年の暮れまでには、少し進歩しているでしょうか。

 

★★

 

 昨年大晦日に、駆け込みのように、さとうの小説を何冊か買ってくださった方いて(もちろん、購入者の方がだれかはわかりません。)、励まされました。

 さとうは、実務的な編集作業やデジタル処理は苦手です。本当は書くだけに専念したいのですが、ここは頑張りどころです。紙の本は、大変めんどうなもので、制作コストは高く、売れなければ邪魔にもなるのです。つれあいが一応商業出版し続けた物書きでした。紙の本が作られる過程も、その労苦も、その最後の無残も、よく知っています。

 

 けっきょく本を愛した人たちによって支えられた文化です。若い時は、すてきなセーターやケーキを我慢して買った一冊ずつ。何十年たって、蔵書だけはたくさんあり、しかし、それらの多くが、昔の恋人のように色褪せてくるのは意外でした。けっきょく、十年ほど前に、五千冊くらい(二人合わせた分です)の本を捨てました。

 アメリカではすでに電子書籍の時代だそうです。見たこともない時代が、到来している気がします。

 

★★

 

 今年は、PC内に書き溜めている(溜まっている?)エッセイや小説を書籍にして出しておきたいと念じています。原稿用紙に一字一字書くことが文章作りだと教わった世代ですから、毎日ふんだんに新しい誌面が提供されるブログは、ありがたいシステムです。けれども、いつ、このシステムも終わりになるかわからない。

 考えるまでもなく、自分だっていつ御国(天国)に召されるかわかりません。人は、生まれたら、必ず死にます。早く死ぬことが不幸であるかどうかもわかりませんし、長生きしてもいくらでもありません。

 「私たちの齢(よわい)は七十年、健やかであっても八十年」と、モーセの祈りに歌われています(詩篇90篇10節)

 

 三千五百年の昔から、人間の寿命はどれほど延びたでしょうか。死は先延ばしになっても、生物としての働き盛り(繁殖期間)は大して変わっていないでしょう。すべては、神さまのみ手の中にあるとの実感をいよいよ強くしています。過去、死ななかった人はいないし、敬老の日に百歳の方が、テレビインタビューで、「あっという間だった」と言っておられるたのを聞きました。人生は短いものだと、ようやく、気づく日々です。

 

 アマゾンとは、契約書を交わしていますし、売れれば一冊からでも、きちんと支払ってくれます。 

 アマゾンが展開しているところなら、市場は世界中です。英語が強ければ、ベストセラーも夢ではなさそうですが、さとうは、英語であいさつメールを書くことと、新聞のベタ記事を読むのがやっとですから、とても外国語で、小説やエッセイを書くことはできません。

 自信のある方、意欲のある方は、どんどん挑戦なさったらいかがでしょうか。そういう時代が来ているのではないでしょうか。

 

★★

 

 2021年、

 皆様の祝福をお祈り申し上げます。

 本年もよろしくお願いします。

                 さとうまさこ

  

 

 


暮れも正月も

2020年12月29日 | 立ち止まって考えること

                                

 年末のこの時期で一番記憶に残っているのは、父が暮れの31日に臨終の宣告を受けたこと。

 まだ還暦過ぎであったし、健康だった。12月26日の朝に倒れ、救急車で運ばれた。50年以上も昔のことなので、医療は今のようではなかった。CTもMRIもない時代、お医者様は一通り診察しておられたけれど、手の施しようがなさそうだった。

 後頭部のどこか――小脳か延髄のあたりがダメージを受けているらしいとのことで、点滴と尿の導管がつけられた。病気などに縁がない家だったので、家族は、ただ目をみはるばかりだった。

 父の兄弟や母の親族も一応見舞に来て、帰った。「なんで●●雄さんが・・」と、だれもが驚くばかり。叔父だけが「兄さん。なんで・・こんなことになって・・」と体に取りすがって半泣きで叫んだ。叔父は隣県に住んでいたし、母から父の兄弟仲はあまり良くないと聞いていたので衝撃だった。

 「大学病院の先生をご存じでしたら、転院してください」と言われた。すぐ近くに県立の医大病院(当時)があった。しかし、暮れの押し詰まった時期で、いざとなったら、知り合いも、伝手もない。父ひとりに依存していたのだから、父が倒れたら母などおろおろするばかり。それでも、「あと三日くらいでしょう」と言われたのに、大みそかを迎えた。

 

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 31日になって明らかに呼吸が荒くなり、血圧が下がって来た。なぜか、その時(数分か、数十分か)、私だけが父の枕元にいた。半開きの目は充血していた。私は、やっと、呼びかけることができた。

「おとうさん!」(おとうちゃん!かもしれない)と、何回か。すると、父のまぶたが上がった。充血した目から霧が晴れるように赤いもやのようなものが消失していき、瞳が現れた。父は私を見た。「まさこか」と言った。倒れて以来初めての言葉だった。

 その時、母と兄と弟妹達、家族が戻って来た。「意識が戻ったわ。今、まさこかって、はっきりと」

 でも、振り返ると、父は、ベッドの上で荒い呼吸を続けていた。目は元のまま、昏睡状態の人だった。

 

 お医者様が一度だけ心臓のあたりに注射をして、消えかけた心拍がいくらか持ち直した。30分ほどして、それも終わりだった。「ご臨終です」と、先生は言われた。午後11時59分だった。きっかりと大晦日の最後の最後だった。

 

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 暮れになると、翌年の夢やいろんな思い出や、新たな希望にちょっと胸が弾むのですが、でも、この瞬間にも、病床にある人がおり、別れがあり、涙や叫びがあるのだということは、その時まで、本当には知らなかったように思う。すぐに家のバンに乗せて遺体を家に運び帰った。

 近所の方々がすでに待機していて、お寺さんも時を置かず見えて、「枕経」をあげてくださった。 続いて、近所の女性たちが長い長い「ご詠歌」。誰が、布団を敷き、だれが枕元に線香台を用意したいたのかわからない。元旦の朝は、人の出入りが多くて、あちこち開け放っているので寒かった記憶だけが残っている。

 たくさんのお悔やみを聞いた。何と答えたのか、まったく覚えていない。

 

 正月二日が葬儀だった。

 私は、一応成人した娘として、遺族らしくしていたかもしれないが、実感がなかった。父がいなくなったことが信じられなかった。

 

         

 

 

 

 


【婚活】クリスチャンの婚活Partyに密着してきました!!(主催:クリスチャンのための結婚相談所Lita)

2020年08月17日 | 立ち止まって考えること

 

結婚という言葉は、「誕生」「死」と同じく、いのちの大きな節目ですね。未婚の人の割合が増えているとか、結婚だけが人生の姿ではないと考えられるのも事実ですが、結婚は、生命の営みの内に、最初から組み込まれた「不思議な装置」ではないでしょうか。

何もかも完全に与えられ、快適に整えられたエデンの園に置かれた最初の人アダムは、一人でも十分やって行けたはずです。彼は、園の管理人として自由にのんびりとくらしていたのです。園の中央には「命の実の木」があって、その実を食べれば、アダムは永遠に生きることができました。神様がいつもそばにいて下さるのでさびしくもありませんでした。

けれども、神様はアダムを見て仰せになりました。

「人がひとりでいるのは良くない。助け手を与えよう」

そしてエバを、アダムに娶(めあ)わせられたのです。

この話をファンタジーだと思われるでしょうか。そう感じていただいてもOKです。しかし、ファンタジーに真理がなければ、だれが聞くでしょうか。

 

【婚活】クリスチャンの婚活Partyに密着してきました!!(主催:クリスチャンのための結婚相談所Lita)

 

 

   

とにかく、人は結婚し続けてきました。成人前に亡くなるとか、なぜか独り身を選ぶとか、すぐに死に別れるとか、かならずしも自分の目に叶った相手でないとか、いろんな不完全さの中で、でも、結婚してきました。その結果として、いのちを繋いで、増え続けてきたのです。まさに、神様が人を置かれた後に、仰せになった通りです。

「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を満たせ」

これは、ファンタジーではないですね。リアルですね。

地球は人であふれていて、だれひとりとして、結婚(もちろん広い意味でです)の結果として、生まれなかった人はいないのです!!

 

   ★★

 

私個人は、個人的に誰かに、「結婚しなさい」などというつもりはないのです。

けれども、としごろになって、誰かを恋い慕うのは、素晴らしいと思うのです。恋の先に愛と結婚があり、その結婚が多くの人から祝福されるものであれば、申し分がないですね。なぜ人を恋い慕うようになるのか、だれにもわかりませんね。でも、そのような「時」があり、その時でなければならないこともあるのです。ただ、だれもが「その時」に出会えるとは限らないのです。

私の若いころには、仲人さんがあちこちにいました。半ばプロみたいに、独身男女を見ると結婚話にまとめる人。チャンスがなければ、「お見合い写真」を配れば、どこかで実ることもありました。年配者や親せきや、友人が心配してくれたのです。

最近では、人ではなく、ネットが人を出会わせるそうです。

また、「婚活」という言葉も花盛りです。クリスチャンの世界でも、例外ではありません。