ペッパー君と握手! 2016年02月28日 | Goods ちょっと古いけど、「犬も歩けば棒に当たる」 なんと! 思いがけずロボットのペッパー君と握手してしまいました! なんとなくそっぽを向かれているみたいな気もしますが、仕方がありませんね。 とても若くてハンサムなペッパー君なのです。 年甲斐もなく、どきどきしてしまいました。 ヨドバシカメラの店内で。
「教会はお風呂屋さん」 2016年02月27日 | 聖書 ある集まりに出席した時、会合の後に喫茶店でお茶を飲むことになったのです 十人ほどの女性たちは、 そこで初めて会った人もいて、親しさと警戒相半ばする雰囲気です。 多分、雑談の中で、私が自分のことを「クリスチャン」だと話したのでしょう。 その会合は、「栄養とサプリ」に関するレクチャーでした。もっとはっきりいえば、 栄養食品を宣伝するための会合でした。 そのような場所で、「クリスチャン」だと自己紹介したことは、 違和感があったのかもしれません。 ある女性が言うのです。 「クリスチャンといってもねえ。あの人がクリスチャンなの?みたいな人がいるわ」 私はすかさず、言いました。 「教会はお風呂屋さんなのよ。汚れた人が来て、きれいになって帰っていくところ。 一週間経ったら、また汚れるので教会へ行って汚れを洗うの。きれいな人が行くのではなくて、 汚れた人が行く所なの。私も汚れてるからね。教会に行っているんです」 「汚れを自覚している」と言いたいのを、ぐっと飲み込みました。 私が汚れていると聞いて、言い出しっぺの女性の顔が、ぱっと明るくなりました。きっと、 「それならわかる!]と、思ってくださったのですね。 「教会は風呂屋さん」とは、ある牧師が教えて下さったたとえです。 聖書が生まれた中東には、日本のような「お風呂屋さん」はなかったでしょうから、 聖書には、出ていません。 過日、このたとえを教えて下さった牧師に、「あれはとても良いたとえですね」 と申し上げたところ、先生の答えは、 「あれは、私が若いころ、どこかの牧師が話しておられたのです」。 ◎ ● 〇 ♪♬ キリストは、宣言しています。 「わたしは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来たのです。」 (マルコの福音書2章17節) また、この直前に、同じ個所でこうも言っています。 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」 これはもちろん、病人と丈夫な人、正しい人と罪びとがいるという意味ではなくて、 すべての人は、何らの病気があり、完全に正しいことなどあり得ないのに、 気づいていないという前提の話です。 お風呂屋さんに行くのは、「汚れた人」ですが、 体の汚れに気がつかない人はいませんね。 「いや、自分は銭湯には行かない。家の風呂に入っているから。」 あるいは、 「温泉、サウナ、自然の河川が趣味」と言われる方もいると思います。 要点は、ただ、自分の汚れに気づいていて、汚れを洗いたいと思う「事実」ですね。 なんといっても、私たち人間は 「神の姿にかたどられて造られた」のですから。(創世記1章26節27節)
電子書籍「ワシュティ」修正版のご案内 2016年02月25日 | 本 573円 昨年暮れ、 アマゾン Kindle版書籍として出版した 小説ワシュティ聖書物語よりシリーズ(1)を このたび、修正を加えて、改めて出版しました。 修正は、物語を変更するものではありませんが、 大切な単語に数か所、誤植があり、訂正しました。 また、歴史小説特有の表現や用語があるため すべての漢字に、ルビを振りました。 すでにお買い求めいただいている方は、 自動的に修正版がアップされます。 感謝とともに さとうまさこ ★この電子書籍は、キンドル専用リーダーだけでなく、 パソコン、スマホ、タブレットでもお読みいただけます。 無料のキンドル専用端末が、本の広告画面からすぐにダウンロードできます。 試し読みもありますので、ぜひ一度、ご覧下さいますようお願い申し上げます 下記のURLを検索画面に打ち込んで、最新記事(2016年1月8日)を見ていただくと 広告のURLがあり、確実に広告のページが開きます。 http://seisyonosekai.seesaa.net/
人の心は 2016年02月24日 | 聖書 人の心は病苦をも忍ぶ。 しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。(箴言18章14節) きょうの聖書通読エッセイの箇所にあった言葉です。 ほんとうに、深くうなずいてしまいます。 たくさんの方々が、病院で深刻な病と闘っています。人間は不治の病であっても、なんとか、 治療して元気になりたいと願うのです。 生きようと思うかぎり、大きな傷痕の残る手術も、副作用の強い抗がん剤やつらいリハビリにも、 立ち向かえます。 しかし、心がひしがれた瞬間、人間は耐えきれなくて、折れてしまうのではないでしょうか。 ★★ だからといって、「打ちひしがれた人」に「元気を出しなさい」と励ますのはどうでしょうか。 「心を前向きにシフトして」「いつもポジティヴに」 なんて、言ってもらって、どうなるわけでもないでしょう。 箴言がこの言葉を載せているのは、 心のひしがれた人を励ますためでも、 そこから脱出する方法を、てっとり早く教えるためではなく、シンプルに、 だれでも、 人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか となり得ると、宣告しているだけだと思います。 人間は、ついはっきりした答えを欲しいと思うのですが、 聖書は、容赦なく、問題を問題として投げかけています。 たとえば、次のことばはどうでしょう。 貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。 彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおされのこと。(箴言19章7節) ★★ 赤裸な人間の心を、ポンと提示されて、 「これはひどい! 少なくとも私は違う!」とは、 だれも言い切れませんね。 自分にも思い当たる弱さや闇、これが、罪(SIN)と言われるものだと納得です。 ちなみに、箴言の前置きは次のようになっています。 イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。 これは、知恵と訓戒とを学び、 悟りのことばを理解するためであり、 正義と公義と公正と、 思慮ある訓戒を体得するためであり、 わきまえのない者に分別を与え、 若い者に知識と思慮を得させるためである。 知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、 悟りのある者は指導を得る。 (箴言1章1節~5節)
崇徳院とオネシモ 2016年02月22日 | 聖書 先週金曜日の夜、神保町の「ハイランズ・バー」で行われた、「落語」「聖書劇」「宴会芸」のおさらいです。 宴会芸は、面白いけれど見ていただくしかないのです。 落語の「崇徳院」は、平安時代末期・悲劇の天皇で知られる崇徳院の和歌 瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ に、ひっかけた楽しいお話で、古典落語としても有名です。 私は、久しぶりに聞いて、 他愛ないお話だけれどよくできているなあと感心しました。 もちろん、二つ目の新進噺家・三遊亭遊助さんの「芸の力」によるところが大きいのですが。 行きずりに出会った若い男女がひと目ぼれしてしまう。 別れ際、とっさに、この歌の下の句を書いて、若旦那に渡す令嬢、それから、 それをもらった若旦那と、令嬢の二人とも、同時に重症の恋わずらい。 それを知った周りの人たちが、歌の下の句を頼りに相手を探して回るなんて、 ほんとに優雅な話です。 下の句を叫んで回る長屋の熊さんが、全く歌の意味もわからない無学で素朴な人であるのも、 面白い! ★ 「ピレモンへの手紙」は、新約聖書のパウロの書簡の最後にある短い手紙です。 ローマ帝国の囚人となっていたパウロのもとに、誠実なキリストの信仰者ピレモンの奴隷オネシモが やってきます。じつは、主人ピレモンの家の金を盗んで逃亡してきたのです。 オネシモも、ピレモン同様パウロの伝道で救われた人でした。 、 パウロはオネシモを説得して、主人のもとへ帰します。盗んだ金を弁済し、 主人ピレモンへの手紙を持たせて、オネシモを赦して、受け入れるように頼むのです。 クリスチャンは、この世での身分は奴隷と自由人であっても、同じ主にある兄弟です。 パウロは、オネシモにも自覚を促し同時にピレモンに、主にあって赦して受け入れるよう書いています。 ほんとうに、「美しい話です」 1ページ半ほどの短い手紙ですから、聖書をお持ちの方は是非、お読みになってみてください。