ノアの小窓から

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聖書に見る美貌――7

2016年09月12日 | 聖書


     サウル王は、悲運の王でした。
     自分を選んで王位につけてくれた預言者サムエルから、見放されてしまったのです。
     じっさいには、神から見放されたのです。
     神の命令を聞くより、民の顔色をみる「気立ての良さ」が、彼の弱さでした。
     王になる者は、民の幸福を考えるのはもちろんでしょうが、
     天命を聞かなければいけないのです。

     私(たち)は、神のお考えのすべてを知ることはできません。
     聖書の歴史書(Ⅰサムエル記)に記されているサウルの軌跡をたどって、
     また、限られた推測をするだけです。

     サウルが美貌の青年でなければ、あるいは、王には選ばれなかったかもしれません。
     彼は美しく、家柄も良く、気立ての良い青年でした。
     王になった後は、勇敢に戦いの先頭に立ち、
     多くのイスラエル人が、
     「王様。ばんざい」と言えるようなオーラを備えていたのです。

     「ささげ物の時期」と「聖絶の命令」において、大きな間違いを犯してしまったサウル。
     「そのような欠点が内在していた青年を、どうして、全知全能の神が選ばれたのか。」
     との疑問があるかもしれません。

     これについては、
     「人の世には、神の水準に到達できるような人材はいない」と言えるかもしれません。

     歴史上、今日まで、完全に正しかった王や指導者など、一人もいませんし、
     これは今日の政治家を見てもうなずけます。
     選挙の時など、私たちはなるべく意見の近い人、政策に納得できる人、経歴や実績から、
     信頼できそうな人を選ぶのです。
     しかし、あれこれ批判に遭わない政治家など、けっきょくいないのです。
     
     今の民主主義の世では、
     神の命令はほとんどないようでもあり、民の声だけ聴いていれば良いようなものですが、
     その民がめいめい「自分の要求」を持ち出すのです。
     その落としどころは、多分多くの政治家の苦心するところではないでしょうか。


        ◎   


     サムエルは、神のご命令通り、ベツレヘムのエッサイの家に行きました。
     高名な預言者サムエルがやってきて、いけにえをささげる時に、
     エッサイと彼の息子たちが招かれたかたちでした。
     エッサイには八人の息子がいましたが、そのうちの七人がやってきました。

     これは、とても感動的な場面です。     



          彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、
          「確かに、主の前に油を注がれる者だ」と思った。
          しかし、主は、サムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。
          わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。
          人はうわべを見るが、主(しゅ=神)は心を見る。

          エッサイはアビナタブを呼んで、サムエルの前に進ませた。
          サムエルは、「この者もまた主は選んでおられない」と言った。

          エッサイはシャマを進ませたが、サムエルは、
          「この者もまた、主は選んでおられない」と言った。

          こうしてエッサイは、七人の息子をサムエルの前に進ませたが、
          サムエルはエッサイに言った。
          「主は、この者たちを選んでおられない。」 

          サムエルはエッサイに言った。
          「子供たちはこれで全部ですか。」
                  
          エッサイは答えた。
          「まだ末の子が残っています。あれは今、ひつじの番をしています。」
          サムエルはエッサイに言った。
          人をやってその子をつれて来なさい。その子がここに来るまで、
          私たちは座につかないから。」
                       (Ⅰサムエル記16章6節~11節)


      こうして、いよいよ、ダビデが登場するのです。

      王制イスラエルの王、ダビデ王朝の最初の王として、
     「神の国の歴史」の中にもっとも大きな名と事績を持つダビデ、

      美貌の兄たちを退けて選ばれたダビデは、どのような容貌だったでしょう。