ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

ウエルカム礼拝2

2017年06月22日 | 聖書


      教会が、とくに人をお招きする催しをしなくても、
      教会のドアはいつでも、すべての人に開かれているのです。

      人間的な目で見ると、確かに、教会も鍵をかけるし、昨今では、
      まったく見知らぬ人がいきなり入ってくれば、警戒もします。
      でも、そのような警戒は、外見的な建物である教会堂に対するセキュリティです。

      教会は本来、教会堂の意味ではなく、神を信じる人々の集まりことです。
      教会用語で「召された者の集まり」と言います。

      同じ神を信じた者たちが集まるのは、神のご命令だからです。
      また、このつながりは、「同じ主(しゅ=神、キリスト)にある兄弟姉妹」とたとえられ、
      その目的は、
      「たがいに愛し合う」ことです。そのためにクリスチャンたちは、教会に集います。
      この喜びは、じっさいに体験してみないと、わからないものかもしれません。
      ですから、やっぱり、お招きしたいのです。

      ゲストスピーカーの牧師が、予定しておられるメッセージのタイトルが
            夜中、私を起こしました。

         「捨てる神?拾う神? いいえ、あきらめない神です。」

       私は、この魅力的な言葉を、朝まで、まんじりともせず
            考えつづけました。

      


         

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