たまたま、また、テレビで、オードリー・ヘプバーンの尼僧物語が放映されていた。
過去、何度か観ているけれど、キリスト者になってから見ると、「ああ、こういう物語だったのだ」と、感慨がある。
かつては、ストイックな宗教的戒律と世俗のさまざまな問題との間で、次第に信仰的純粋さに疲れ、やがて還俗してしまう修道女の物語としてしか読めなかった。
父親がナチに殺されたのに、地下抵抗運動への加担も許されなくなったとき、
教えについて行けず修道院を離脱する尼僧ルークに共感を覚えただけだった。
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しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、
悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さるからです。
自分を愛してくれるものを愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。
取税人でも同じことをしているではありませんか。
また、自分の兄弟だけにあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。
異邦人でも同じことをするではありませんか。
だから、あなたがたは天の父が完全なように、完全でありなさい。
(新約聖書・マタイの福音書5章43節~48節)
キリストは、「あなたの敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい」と言われたのです。 敵を愛するのです。
旧約聖書では、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と命じられています。イエスはそれを一歩進めて、「敵をも愛せ」と仰せになったのです。
聖書では、隣人(となりびと)の意味は、同じ家族、氏族、民族――はっきり言えば利益共同体にある人々なのです。「取税人や異邦人」は、ユダヤ人の利益を損なういわば敵対する人たちです。
確かに、「愛」は、べつに聖書を知らない人たちの間でも、いくらでも見られます。
親が子供を愛するのは自然なことです。どれほどの犠牲をはらっても、親は子供を愛して子供を育てていくでしょう。
親戚や仲間ともできれば平和に仲良くやっていきたいのです。
難しいのは、敵を愛すること、迫害するもののために、祈ることです。
ちなみに、さとうはひどい迫害にあったことはありませんが、ほんとうに敵に苦しめられたら、彼らを愛し祈るなどできるかしらと考えてしまうのです。
尼僧ルークの選択は、大部分の観客から共感をもって見られるでしょう。それ自体は間違っているなどと、誰も言えないと思います。
ただ、ルークの心の中には深い懺悔の気持ちがあったと読まなければいけないのではないでしょうか。
尼僧ルークは、レジスタンスか、信仰かという二者択一の中で、自分が、「神の基準」にとうてい届かないことを、あらためて自覚したはずです。
ここで初めて、「観念的で美しい信仰」が、「本物の煉られた信仰」に生まれ変わったはずなのです。
神のみこころは、私たちが限りなく神に近づくことではなく、自分が神の基準にほど遠い者、それゆえ、十字架の救いが必要だと知ることなのですから。
このテーマの深さゆえに、この映画が、何度見ても古びないのだと改めて思ったのです。