きょうの、もう一つのブログ聖書通読エッセイCoffee Break「小預言書」は、断食の是非を問うものでした。
健康やダイエットとしての断食ではなく、聖書の記事のお話になるのをお許しください。
ときは、BC517年です。
バビロン捕囚として国を追われていたユダヤ人たちが、ペルシャ王キュロスの計らいで帰国していました。
目的は、バビロンのネブカデネザルによって破壊されたエルサレムの神殿を再建することでした。
神殿の祭祀道具や貴重な器物も一緒に返され、ある程度の献金も集まり、ペルシャ各地から、
帰国の途に就いたユダヤ人は5万人にも及びました。
彼らは、張り切って神殿の礎を築き始めるのですが、間もなく中断してしまいました。
大きな理由は、彼らがかつて住んでいた土地には、彼らの代わりに入植させられた異邦の民が住んでいて、
すでに生活の基盤をもっていたことです。
帰国した民は、たちまち生活に困窮するありさまでした。さらに、すでにその地のいる人々は、
神殿再建を妨害しようとします。
生活ができない、さらに妨害がある中で、人々は無気力になり、神殿建設の希望を失っていたのです。
その時、預言者ゼカリヤは、神の言葉を民に告げ知らせます。
神の大きな後押しと励ましの言葉で、民は再び奮い立たされ、
神殿建設に取り掛かるのです。、
神殿が完成に近づいたとき、ベテルという町から4人がやってきて、ゼカリヤに神のみ心を問うのです。
「私たちが長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」
実は、捕囚で故国を失い、散らされたユダヤ人たちは、神殿が焼失した日(BC586年5月)を悼んで、
ずっと、その日に断食してきたのです。
神のお答えは、厳しいものでした。
「この70年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、
このわたしのために断食したのか。
あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。
万軍の主はこう仰せられる。「正しいさばきを行い、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。
やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。
互いに心の中で悪をたくらむな。」
(旧約聖書・ゼカリヤ書7章)
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今日でも、キリスト教のある教派では、断食を取り入れているところがあるようです。
自己否定し、悔い改めるために食物を断つのは、ほかの宗教でもあることかもしれません。
自分を打ち叩いて嘆き悲しむというのは、確かに、反省するための一つの方法です。
しかし、そののち、
「やったァ! ハナマル!」と自分をほめるのは、本来の目的にかなっているでしょうか。
まして、断食明けに、飲み食いして楽しむとしたら、それが行事化していたら、
それは神のみ心に叶うかと、神は問われているようです。
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神は、自己満足の修養を求めていないということです。
神のみ心に叶うということは、きわめて現実的に、
実際の世界で、神の目に正しい行動をしなさいと命じておられます。
「正しいさばきを行い、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。
やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。
互いに心の中で悪をたくらむな。
Coffee Break「小預言書」
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