サムソンは結婚式の場で、客のペリシテ人たちに一つのなぞなぞを出しました。賭けられたのは、亜麻布の晴れ着30枚でした。今では、高級品でも衣服はそれほど高くないですが、当時のサムソンには買えないほどのものでした。サムソンは自分が謎に勝って晴れ着を敵から巻き上げるつもりでいましたが、花嫁に答えをあかしたばかりに、謎を解かれて負けてしまいます。
サムソンは自分のうかつさに荒れ狂います。
Coffee Breakヨシュア記・士師記127 怒りに怒りを(士師記15章1節~8節)
彼女は祝宴の続いていた七日間、サムソンに泣きすがった。七日目になって、彼女がしきりにせがんだので、サムソンは彼女に明かした。それで、彼女はそのなぞを自分の民の人に明かした。(士師記14章17節)
町の人々は、日が沈む前にサムソンに言った。
「蜂蜜より甘いものは何か。
雄獅子よりも強い者はなにか。」
すると、サムソンは彼らに言った。
「もし、私の雌の小牛で耕さなかったなら、
私のなぞは解けなかったろうに。」 (18節)
その時、主の霊が激しくサムソンの上に下った。
彼はアシュケロンに下って行って、そこの住民三十人を打ち殺し、彼らからはぎ取って、なぞを明かした者たちに、その晴れ着をやり、彼は怒りを燃やして、父の家へ帰った。(19節)
それで、サムソンの妻は、彼に付き添った客のひとりの妻となった。(20節)
サムソンの物語は、読む者に衝撃を与えずにおかないのではないでしょうか。とくに、「兄弟(隣人のこと)に腹を立ててもいけない」(マタイの福音書5章22節)と言われたイエス様のことばを実践しようと願って、実践できない私たちです。腹を立てたサムソンの怒りの火に、油を注ぐような「主の霊」に戸惑います。
サムソンはもともとたくましい人だったかもしれませんが、主の霊が「激しく下る」のでなければ、アシュケロンの住民を三十人も殺して、晴れ着を取ってくることなどできなかったのです。
私たちは、スーパーマンがドアをぐるりと一回転すると、スーパーマンに早変わりして、大活躍するのを拍手喝采で待ち受けます。しかし、私たちがスーパーマンに共感する最も大きな理由は、彼が「正義の味方」だからです。日頃は平凡でむしろ気弱な新聞記者クラーク・ケントが、危機一髪に臨んでスーパーマンになり、悪を懲らしめるのです。
サムソンが危機に陥ったのは、いわば「自分で蒔いた種」です。自分から吹っかけたなぞ、また、妻の泣き落としにあって、ついに彼女に謎の答えを打ち明け、彼女が人々にそれを告げたのです。殺すと脅迫されていたのですから、彼女の行動には同情の余地があります。
晴れ着三十着をどこかで調達しなければならなくなったサムソンは、悔しがりました。
普通の道徳の教科書なら、ここでサムソンは自分を反省し、二度とこのような思い付きの行動を取ってはならない、賞品については謝って免除してもらうか、だれかに泣きついて調達してもらい、一生借金を背負っても仕方がないと思い定め、教訓とするのがせいぜいでしょう。
ところが、ここで、サムソンに主の霊が下るのです、そして、ペリシテ人の町だとはいえ、直接は何の関係もないアシュケロンの人たちが打ち殺され、晴れ着を奪われるのです。
それでも、腹の虫がおさまらなかったのでしょう。サムソンは、花嫁の床にも入らないで家に帰ってしまいます。花嫁の父は、仕方がないので、娘を客のひとりにやってしまうのです。いわば、短慮に短慮、怒りに怒りを重ねるこのようなサムソンが、なぜ「神に聖別された人」なのだろうと、だれでも、驚くのではないでしょうか。
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家に戻ったサムソンは、自分が結婚するほど好きだった女のことを思い出しました。それが、帰ってからどれくらいたっていたのかはわかりません。とにかく、かっかと燃えていた怒りが冷えるまでの時間です。それで、サムソンは花嫁の父の家に行って、「妻と会わせてくれ」と頼むのです。
彼女の父は言った。「私は、あなたが本当にあの娘を嫌ったものと思って、あれをあなたの客のひとりにやりました。あれの妹のほうが、あれよりもきれいではありませんか。どうぞ、あれの代わりに妹をあなたのものとしてください。(15章2節)
すると、サムソンは彼らに言った。「今度、私がペリシテ人に害を加えても、私には何の罪もない。」(3節)
それから、サムソンは出て行って、ジャッカルを三百匹捕え、たいまつを取り、尾と尾をつなぎ合わせて、二つの尾の間にそれぞれ一つのたいまつを取り付け、(4節)
そのたいまつに火をつけ、そのジャッカルをペリシテ人の麦畑の中に放して、たばねて積んである麦から、立ち穂、オリーブ畑に至るまでを燃やした。(5節)
ここでも、妻の父の言い分に間違ったところはありません。結婚式まで上げた花嫁を放置して花婿が帰ってしまうのは、大変な屈辱を彼らに与えたことだったでしょう。「嫌った」は離婚を意味することばですから、花嫁の父が、その場で別の男に娘をやったとしても当然なのです。
サムソンには、そんな理屈は通じません。彼は、「自分の妻と会いたい」気持ちを遮断されて、怒りに燃えるのです。
ジャッカルはイヌ科に属するオオカミに似た動物で、当時の中近東にはたくさんいたのでしょう。体長65~100センチくらいですから、中型犬くらいです。それにしても、肉食獣のジャッカルを三百頭もとらえて、尾と尾を結びたいまつをつけると言うのは、常人の力をもってはできないことです。ここでは、特に書かれていませんが、サムソンが怒りをもって行動する時には、「主の霊」が下っていたと考えられます。
この時期を聖書は、「小麦の刈入れ時」(15章1節)と書いていますから、五月ごろの穂が実って熟したころです。
そのようなところに、たいまつをつけてジャッカルを放したのですから、これもまた、大事件です。ペリシテ人も怒ります。
「だれがこういうことをしたのか。」
「あのティムナ人の婿サムソンだ。あれが、彼の妻を取り上げて客のひとりにやったからだ。」それで、ペリシテ人は上って来て、彼女とその父を火で焼いた。(6節)
正確ないきさつなど当事者以外にはわかるわけもありません。「サムソンに見初められた女」は、同族の人間に焼き殺されるのを免れたものの、結局、ここで同じ目に会うのです。
それを知ったサムソンは、また怒りに燃えます。
すると、サムソンは彼らに言った。「あなたがたがこういうことをするなら、私は必ずあなたがたに復讐する。そのあとで、私は手を引こう。」(7節)
そして、サムソンは彼らを取りひしいで、激しく打った。それから、サムソンは下って行って、エタムの岩の裂け目に住んだ。(8節)
激しい怒りの後始末を、それ以上の激情でおおうサムソン。しかし、彼にも理があったのです。主がペリシテ人と事を起こす機会を求めておられた(14章4節)からです。いって見れば、神様が仕組まれたストーリーだったのです。
グロテスクなほど豪快な人間の物語は、それゆえ、深く考えさせられるところがあるようです。