伝道者の書1空の空。伝道者は言う。(伝道者の書1章1節~14節)
伝道者の書の著者は、ダビデの子ソロモンです。ソロモンは、イスラエル王国の歴史を通じて、もっとも隆盛な王でした。
彼の時代、国力は充実し、彼はその勢力を広げ、貿易や外交力を駆使して、空前の繁栄を国にもたらしました。(Ⅰ列王記4章21節~34節)何と言ってもソロモンは、第一神殿を建てた王でした。(Ⅰ列王記5章~9章)新しい事業を次々と展開し、手にした黄金で王宮を建て、軍備を増強しました。また「妃7百人、側女3百人」と言われる多数の妻をもちました。
彼はまた、高い徳と知恵をもった英明な王としても知られました。その洗練された宮廷は、シェバの女王を驚かせ(同10章1節~13節)、その知恵で裁いた難事件は、聖書にも記されています。(Ⅰ列王記3章16節~28節)生きている間に3千の箴言を書き,詩歌に通じ、あらゆる学問にも通じていたと言われています。
「伝道者の書」は、華麗で隆盛な権力者として生きた一人の王によって書かれたのです。このことは、書物のことばに重い真実を加えていると、思います。
エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。(伝道者の書1章1節)
空の空。伝道者は言う。
空の空。すべては空。(2節)
日の下で、どんなに労苦しても、
それが人に何の益になろう。(3節)
「労苦することが何の益になろう」という嘆息は、とても虚無的ですが、多くの人の共感を呼ばないでしょうか。長い人生においては、だれでも何度か「いったい自分のやっていることに、何の益があるというのだ。空しい」と、感じることがあるでしょう。とくに、貧しかったり、下積み続きだったりすると、人生に意味などあるのだろうかと思えてしまいます。けれども、伝道者は、貧しい下積みの庶民ではありません。ですから、ここにある「労苦」はたんに、額に汗を流して働いているような、社会的物質的に報われないような労苦ではないのです。それだけに、意味が深いと思います。
★★★★★
一つの時代は去り、次の時代が来る。
しかし地はいつまでも変わらない。(4節)
日は上り、日は沈み、
またもとの上る所に帰って行く。(5節)
風は南に吹き、巡って北に吹く。
巡り巡って風は吹く
しかし、その巡る道に風は帰る。(6節)
川はみな海に流れ込むが、
海は満ちることがない。
川は流れ込む所に、また流れる。(7節)
「生々流転(せいせいるてん)」と言いますし、「歴史は繰り返す」などとも言います。前者は自然現象の表現であり、後者は人の営みに対するものでしょうか。
大きな視点で見ると、目に見える世界が「ある法則で繰り返されている」のを、だれでも「知って」いるのです。
多くの学者を抱え、世界を観察し、当時の最高の知性を得ていたソロモンは、もとより、「繰り返す」世界を見据えていたのでしょう。
その結果、彼は次のように、結論するのです。
すべての事はものうい。
人は語ることさえできない。
目は見て飽きることもなく、
耳は聞いて満ち足りることもない。(8節)
昔あったものは、これからもあり、
昔起こったことは、これからも起こる。
日の下には新しいものは一つもない。(9節)
★★★★★
私たちが生きている、「日単位」の世界では、毎日、胸を痛めるような事件が起こります。胸躍るすてきなニュースももちろん、あります。
ここ最近は、地震のニュースでもちきりです。家が倒壊し、地滑りが起り、道路が破壊され、多くの人が亡くなり、震度4以上の余震が数日間に80数回もあったなどと聞くと、恐ろしさに胸が痛みます。
ところが、日本では古来大地震が繰り返されてきたのです。私たちが現に生きている過去五十年間にもたくさんの地震がありました。そして、地震学者のコメントを聞く限り、それらは防げない災難で、これからも起こり得るのです。
科学が進歩し、マスコミが発達し、ネットを自由に駆使できる時代の私たちは、ある意味ソロモンのように大きな情報を握っているかもしれません。
だからこそ、ソロモンのつぎの言葉に、共感できる気がすると思います。
「これを見よ。これは新しい。」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。(10節)
先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。
伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。(12節)
私は、天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。(13節)
私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。(14節)
※ 「伝道者の書」は、さとうがもう一つのブログで書き続けている聖書通読エッセイのひとつとして、2013年8月から約一か月にわたって連載したエッセイです。旧約聖書39巻のなかでは「知恵文学」に分類されています。「神の人類救いのご計画」がテーマとなっている聖書の中では、むしろ異色な趣のある書物ですが、この時期に読み返してみたいと思い、ここに再録させていただきます。
さとうまさこ「聖書通読エッセイ」は、2010年からSeeSaaブログに、3500回ほど、連載を続けているもので、現在新約聖書の「ローマ人への手紙」に入っています。よろしければ、訪問してくださいますように。
よろしくお願い申し上げます。
さとうまさこ
伝道者の書の著者は、ダビデの子ソロモンです。ソロモンは、イスラエル王国の歴史を通じて、もっとも隆盛な王でした。
彼の時代、国力は充実し、彼はその勢力を広げ、貿易や外交力を駆使して、空前の繁栄を国にもたらしました。(Ⅰ列王記4章21節~34節)何と言ってもソロモンは、第一神殿を建てた王でした。(Ⅰ列王記5章~9章)新しい事業を次々と展開し、手にした黄金で王宮を建て、軍備を増強しました。また「妃7百人、側女3百人」と言われる多数の妻をもちました。
彼はまた、高い徳と知恵をもった英明な王としても知られました。その洗練された宮廷は、シェバの女王を驚かせ(同10章1節~13節)、その知恵で裁いた難事件は、聖書にも記されています。(Ⅰ列王記3章16節~28節)生きている間に3千の箴言を書き,詩歌に通じ、あらゆる学問にも通じていたと言われています。
「伝道者の書」は、華麗で隆盛な権力者として生きた一人の王によって書かれたのです。このことは、書物のことばに重い真実を加えていると、思います。
エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。(伝道者の書1章1節)
空の空。伝道者は言う。
空の空。すべては空。(2節)
日の下で、どんなに労苦しても、
それが人に何の益になろう。(3節)
「労苦することが何の益になろう」という嘆息は、とても虚無的ですが、多くの人の共感を呼ばないでしょうか。長い人生においては、だれでも何度か「いったい自分のやっていることに、何の益があるというのだ。空しい」と、感じることがあるでしょう。とくに、貧しかったり、下積み続きだったりすると、人生に意味などあるのだろうかと思えてしまいます。けれども、伝道者は、貧しい下積みの庶民ではありません。ですから、ここにある「労苦」はたんに、額に汗を流して働いているような、社会的物質的に報われないような労苦ではないのです。それだけに、意味が深いと思います。
★★★★★
一つの時代は去り、次の時代が来る。
しかし地はいつまでも変わらない。(4節)
日は上り、日は沈み、
またもとの上る所に帰って行く。(5節)
風は南に吹き、巡って北に吹く。
巡り巡って風は吹く
しかし、その巡る道に風は帰る。(6節)
川はみな海に流れ込むが、
海は満ちることがない。
川は流れ込む所に、また流れる。(7節)
「生々流転(せいせいるてん)」と言いますし、「歴史は繰り返す」などとも言います。前者は自然現象の表現であり、後者は人の営みに対するものでしょうか。
大きな視点で見ると、目に見える世界が「ある法則で繰り返されている」のを、だれでも「知って」いるのです。
多くの学者を抱え、世界を観察し、当時の最高の知性を得ていたソロモンは、もとより、「繰り返す」世界を見据えていたのでしょう。
その結果、彼は次のように、結論するのです。
すべての事はものうい。
人は語ることさえできない。
目は見て飽きることもなく、
耳は聞いて満ち足りることもない。(8節)
昔あったものは、これからもあり、
昔起こったことは、これからも起こる。
日の下には新しいものは一つもない。(9節)
★★★★★
私たちが生きている、「日単位」の世界では、毎日、胸を痛めるような事件が起こります。胸躍るすてきなニュースももちろん、あります。
ここ最近は、地震のニュースでもちきりです。家が倒壊し、地滑りが起り、道路が破壊され、多くの人が亡くなり、震度4以上の余震が数日間に80数回もあったなどと聞くと、恐ろしさに胸が痛みます。
ところが、日本では古来大地震が繰り返されてきたのです。私たちが現に生きている過去五十年間にもたくさんの地震がありました。そして、地震学者のコメントを聞く限り、それらは防げない災難で、これからも起こり得るのです。
科学が進歩し、マスコミが発達し、ネットを自由に駆使できる時代の私たちは、ある意味ソロモンのように大きな情報を握っているかもしれません。
だからこそ、ソロモンのつぎの言葉に、共感できる気がすると思います。
「これを見よ。これは新しい。」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。(10節)
先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。
伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。(12節)
私は、天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。(13節)
私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。(14節)
※ 「伝道者の書」は、さとうがもう一つのブログで書き続けている聖書通読エッセイのひとつとして、2013年8月から約一か月にわたって連載したエッセイです。旧約聖書39巻のなかでは「知恵文学」に分類されています。「神の人類救いのご計画」がテーマとなっている聖書の中では、むしろ異色な趣のある書物ですが、この時期に読み返してみたいと思い、ここに再録させていただきます。
さとうまさこ「聖書通読エッセイ」は、2010年からSeeSaaブログに、3500回ほど、連載を続けているもので、現在新約聖書の「ローマ人への手紙」に入っています。よろしければ、訪問してくださいますように。
よろしくお願い申し上げます。
さとうまさこ