夏になると、怪談話が出てきます。
先日はテレビで、稲川順二さんのインタビューがありました。
もともとは、有能なデザイナーで、その世界での実績もある方だったのですが、その後タレント活動、
さらに、とても評判の怪談話の講演で全国をまわっているとか。
インタビューの中でも、上手に怪談話を織り交ぜて披露していた。
★
怪談話を聞いたことのない人はいないのではないでしょうか。
子供のときは、結構怖がるので、
一度や二度は、聞かされるでしょう。
私の子供の頃は、夏の定番の怪談話が映画館にかかっていたものです。
たとえば、「四谷怪談」。
その霊は強くて、芝居でも映画でもそれを興行するときは、
かならず「霊のさわり」があるということでした。
役者がけがをしたり、小屋が災難に会わないために、まず供養をしてから始めるとか。
劇場の前には、確かに小さな祭壇が設けられていた記憶があります。
それがまた、見る前から、「怪談」にリアリティを与えます。
★★
一口話のような怪談は至る所にありました。誰でも、一つや二つ「怖い話を」知っていて、
中には定番のような話もあるのです。
たとえば、夜遅く「知り合いの奥さん」が訪ねてきて、何も言わずに帰って行った。
後で聞くと、その時間に、その奥さんは亡くなっていた。
タクシーの怪談も定番だった。
さびしい通りや、お寺のそばでお客を乗せて、目的地に着いたので「お客さん。着きましたよ」
と振り返ると、だれもいなかった。
バリエーションはいろいろあって、バックミラーには写っているのに、じっさいにはいなかったとか、
後ろで声は聞こえるのにバックミラーに何も映っていないとか、
客が降りた場所も、後で、その家には、母を亡くした赤ん坊がいて、その母親は数日まえに
亡くなっていた。
私が祖母から聞いた話では、祖母の祖母に、ときどき蛇が憑いて、蛇憑きの状態になると、
突然、太い柱を蛇のように、するすると上って、
天井近くの大きな神棚に横になる。
祈祷師に来てもらって祈ってもらうと、蛇が離れて、けろりとして降りてくる。
まあ、これらの話に共通しているものは、たいてい伝聞で、バリエーションがたくさんあることです。
それでも、思わず身を乗り出して聞きたいのですから、人は霊の存在を信じているように思えます。
★★★
最近はあまり怪談を聞かないと思っていたのは、自分が聞かないだけだったようです。
夏だけ特設の「お化け屋敷」は、東京の真中でもあるようですし、
霊を透視するとか、霊を呼び出す、霊を無力化するとかいう「霊能師」は、結構盛況であるらしい。
死んだらおしまいだ、何もないと豪語しているようなおじ様でも、
自分の親や子供や奥さん、兄弟など、身近な人の死を見ると、
幽霊でもいいから、もう一度会いたいと思うのではないでしょうか。
亡くなった人が、どこかで、少なくとも霊の状態で生きていると信じるからです。
雨月物語の世界は、いまでも、あり得ると、私は考えています。
★★★★
聖書は、霊を信じない人には、読めないと思います。
その書き出しは次のようになっています。
初めに神が天と地を創造した。
地は茫漠として何もなかった。闇が大水の上にあり、神の霊が水の上を歩いていた。
(創世記1章1節2節)
神が霊であると、その最初から、聖書は記しているのです。
さらに人の創造と霊は不可分です。
神である主はと地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。
そこで人は生きるものとなった。 (創世記2章7節)
人間は、霊が入っていて生きるものであるのを、
私たちはみんな、本能的に「知っている」のではないでしょうか。
死は、とりあえず体の見える成分である[地のちり]の崩壊で、
じつは、その中にあったはずの霊は、どこかに存在している・・・?
それは、どこかにあって、生きているはずだ・・・。
それにしても、神からいただいた霊は、幽霊の霊と同じでしょうか。
久しぶりに
お邪魔致しました
怪談話から霊へのお話。
いつも
ぐぐっと引き込まれます
そして
怪談話が大好きだった
幼少時代を思い出しました。。
梅雨真っ盛り!ですがご自愛下さい。
((o(^∇^)o))
おひさしぶりです。夏はやっぱり怪談。といいたいのですが・・・、この頃は、夜中にひんやりと何かを感じても、「イエス様!」と唱えて、また寝てしまうのです。
きょうはお宅の牧師ご夫妻とお会いしました。
遠くない日にお目にかかれればと願っています。