毎日書いているもう一つのブログの新約聖書通読エッセイから、今日の記事を転載します。キリストは、有名な山上の説教で、十戒のひとつ――「姦淫してはならない」に対して、さらに突っ込んだ見解を伸べられました。
とても難しい戒めとして知られていますが、しかし、ある意味、びっくりするほど、今日的です。
現代は、性的魅力を楽しみ、冷やかし、誇示し、商品、商売にしている世界です。
情欲とはなにか、あらためて考えてみても良いような気がします。
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姦淫してはならないと言われたのを、あなたがたは聞いています。(新約聖書・マタイの福音書5章27節)
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(28節)
もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ヘゲナに投げ込まれるよりは、よいからです。(29節)
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少し前の事ですが、ある評論家がこの聖書箇所を上げて、雑誌にコラムを書いていました。
「情欲をいだいて女を見ただけで姦淫したと言われるなら、男はだれでも毎日姦淫している。人ごみを歩いたら視線が行く女性はいくらでもいるから」
これは、俗受けのする意見です。男性に限らないと思います。女性でも男性を見るとき、どこにも性的関心がないとは言えません。異性の魅力とは性的魅力だという向きもあります。最近でこそ、セクハラや電車の中での痴漢行為が、厳しくとがめられるようになりました。
しかし、わずか40年前ごろまでは、「男の視線を引き付けるような女性が悪い」という意見が、むしろ当たり前でした。レイプなども公にすれば、女性の価値が落ちるということで、泣き寝入りする人も多かったのです。
イスラムの世界などでは、女性が顔や体の線を見せないようにする。また、人前に出ないようにする、男性との接点は家族だけにするという規則があるようです。たしかに、目でみだらな思いを抱くのが、「男女の自然の状態」であるとすれば、男女の間に壁を設けて見えないようにするのは、罪を犯させない一つの方法かもしれません。
十戒は、昨日も見たように、「殺してはならない」の次に、「姦淫をしてはならない」を置いています。古い戒め(旧約聖書)が示していることは、文字通り、婚姻関係以外でセックスをしてはならないの意味です。
でも、イエスは、じっさいに、姦淫をしさえしなければよいと言っているのではないのです。「見えたもの」から、みだらな思いを持つこと自体が、姦淫だとさとしておられるのです。
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この箇所は、21世紀になって、やっとホットな社会問題になってきたセクハラ事件の中で生きていますね。イエスが、姦淫をここまで突き詰めて、話していたのは、やはり、神の子だからですね。
2000年前の人はおろか、いまの大多数の人でも、「目に情欲をいだいて女を見る」ことが姦淫であるとは、理解しがたいことではないでしょうか。
ところが、この教えも、昨日の聖書箇所と同じ解釈ができます。「実際に殺すこと」と「ののしるのこと」の間には、大きな開きがある。同様に、情欲をいだいても、じっさいに「セックスしなければよい」と考えるのが、分別だったりするのです。むしろ、そのような分別ができる人が、常識のある社会人であるのです。
けれども、次から次へと出てくるセクハラ事件は、「常識ある社会人」が起こしているのです。なぜでしょう。心に情欲をいだいて女を見るとき、すでに、人は姦淫への扉を開いているからです。
これが、神の基準ですね。
もちろん、それを守るのは不可能なのです。その不可能に気づくとき、私たちは自分の罪に気づくのだと思います。
イエス様は、自分は完全だ、立派に生きていると考えている人たちに、自分の罪を気づかせようとされているのです。
キリストの基準は、これをクリアしなければ合格できない入学試験のようなものではなく、自分が、とうてい神の基準に達しえない人間であることに気づいて、人が神の前に首を垂れるために、問われているのだといわれています。