ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

聖書の鍵穴

2020年06月07日 | 聖書

 神である主(しゅ)は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。(創世記第2章7節)

 創世記の天地宇宙の創造は、人間の創造で締めくくられています。
 造ったのは、神である主です。何もなかったところから、宇宙とそこにあるもの、地上とそこにあるもの、昼と夜といったカレンダーまで、ことごとく、神が造ったと、創世記は書いています。
 聖書は、それを読む人に、最初から、神を認めなければ、ならないと気づかせるのです。③で述べたように、神が主役であると認めることが、聖書の世界に入る扉の鍵なのです。

 このことに、気がつかない私は、扉の前で長い時間右往左往していました。扉が開いていないのに入ろうとしていたのです。そこに、鍵穴がある事も気がつかなかったのです。

 理由ははっきりしています。すべてを神が造り、神が支配し、神の摂理が世界を生成流転させているといった考え方に、それまで接したことがなかったので、思いも及ばなかったのです。
 自分は無神論者である、と、自覚があったわけでもないのです。「神様のようなものはいるかもしれないなあ」くらいの想像はするのです。でも、神様が私の生活の主役であるなど、思いも及びません。 
 
 宇宙の創生から人間の誕生まで、たった6日なんてナンセンスと、片付けるのは簡単です。ビッグバンだとか、膨張し続ける宇宙だとか、さまざまな化学物質だとか法則だとか、反論するための知的知識の道具は、星の数ほどあるのです。これらは、一見説得力がありますし、たいていの人は膨大な専門的知的知識にはついていけないから、そっちの方が「理屈に合う」ような気がします。


 天地創造の物語は、とても平易なことばで書かれています。

 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
 神は大空を天と名づけられた。夕べがあり、朝があった。第二日。(創世記1章3節~5節)

 子供でもわかる語彙で、子供でもわかる具体的な説明。
 でも、この単純さは、「稚拙」と読み替えてしまうことができます。3500年も昔の人間の考えたことだ。科学のカの字も知らなかった人間が考えだしたことだ。彼らに何がわかるだろう。まともな、天体望遠鏡も、電波望遠鏡もなかったろう。第一、まだ、存在もしなかった人間に、どうして宇宙の始りがわかる? 
 
 こうして、聖書の著者が神であること、創造の主人公が神であること、神が目の前に聖書の鍵穴に差し込む鍵を置いて下さっていることは、あえて見落としてしまうのです。
 
 土地のちりで作った人間の鼻から息を吹き込むと、生きたものになった・・・。
 これは、とてもこわい話です。主語が神でなければ、この文章はナンセンスではないでしょうか。神以外のだれが、ちりから形造ったものに、「いのちの息」を吹き込むことができるでしょう。
 そこで人は生きものとなった。のです。

 生きていて死んだ者が生き返ったのではなくて、ちりが生き物になったのです。


  ※筆者が聖書通読エッセイを書き始めて五日目の記事の再録です。




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