ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

私小説4

2015年04月23日 | 介護
2015.4.23
母と同居して3~4年して別居中の父が脳梗塞で倒れた。
父はディサービスに行く前だった。ディサービスの職員がなかなか父が来ないので父の家を訪ねて気が付いた。父は玄関で倒れていた。すぐさま父は病院に入院した。弟のところに連絡が入った。母のところにも連絡が入った。私たちは病院い駆け付けた。
父は半身まひになり寝たっきりになった。そのうち食事もとれなくなり流動食になった。もう父の住んでる団地には帰れなくなっていた。
私たちは、父の団地の部屋を片付けた。すべてのものを処分して団地を返した。父は流動食をだべるようになった。そしてとうとう流動食も無理になり胃婁になった。病院を3か月ごとに転々とした。どんな父でも父は父。私は父があわれでならなかった。
そんなある日の日曜日、私は父のお見舞いに行こうと思った。主人も「行ってきていいよ」と言ってくれた。ところがどういうわけか母の反対にあった。なぜ実の父なのに自由にお見舞いに行けないのだろう?私は母とけんかした。「そんなに言うならもう行かない!」と、言うわけで私はその日を境に父の病院にお見舞いに行くのをやめた。
後で母が言った言葉は「その日は親戚の人がお見舞いにいくのよ。だから行かないでって言ったのよ」
なぜ?どうして?自分の父なのに思うようにお見舞いに行けないのか?親戚が来たってお見舞いに行ってもいいじゃあないかと、疑問に思った。とうとう私は父が亡くなるまでお見舞いに行かなかった。
父の最後は末期の肺がんだった。家族でささやかな葬儀が営まれた。私は以前から母に「葬式で泣くやつはバカだ!」のと言われていたので悲しみをこらえて涙一つも見せなかった。心の中はグチャグチャだった。母を恨んだ。どんな父でも父は父。私は父がかわいそうに思えた。父は私の結婚式でボロボロに泣いた。男親とはこんなにも泣くものかと言うぐらいに泣いた。
父をこんなにしたのには母にも責任はあるのだ。父だけが悪いわけじゃあない。私は父に対して親孝行の一つも出来なかった。それを今でも悔やんでいる。
母親との同居は上手くいかなかった。毎日がけんかの連続だった。私たち夫婦はすべても行動を母に監視された。大好きだった千代子さんの追っかけも回数が減った。
弟は母を私に預けたきりだった。買い物をして来れば「何を買ってきたの?」「なにこれ?」は日常茶飯事だった。家の電話も自由に使えなかった。「誰からなの?」「何の電話?」「何処へかけるの?」とうとう私は携帯を持つようになった。外出も「何処へ行くの?」「誰と行くの?」「何しに行くの?」「何時に帰って来るの?」はいつものことだった。
ストレスがたまった。夫婦の会話も外出の時だけになった。そんな矢先私が更年期になった。近所の婦人科に通った。が、どうも通っているうちに益々おかしくなった。それが病気の始まりだった。
うつ病だった。保健センターの「こころの健康相談」に言った。知り合いの保健師さんと知り合いの精神保健福祉士さんに正直に自分のことを話した。病名は「うつ病」
友達に相談して市内の精神科は嫌なので3つ先の心療内科に通うことになった。辛かった。毎日が辛かった。何もする気が起きなかった。気分の悪い日が何日も続いた。原因は母にあった。病院には主人が付き添ってくれた。そんなときたまたまテレビでクミコさんの歌を聴いた。
「我が麗しき恋物語」だった。「あっ!」と思った。それからネットでクミコさんのことをいろいろ検索した。コンサートにも通うようになった。始めは落ち込んでいた私がだんだんクミコさんの歌で元気をもらえるようになった。
たまたま出会った病院の良い先生と良い薬と主人の支えとクミコさんの歌で私の病気はだんだん寛解に向かって行った。それはいまから5年前のことだった。
3年前から病気はほぼ寛解!
ただしこの病気は再発もあるのでいまだに病院に通っている。軽い薬を処方されて飲んでいる。先生からはアルコールを少しなら飲んでもいいと許可をもらっている。たまにはアルコールも飲む。最近は病院に行っても診察は5分で終わる。クミコさんの話をして帰って来る。主人は私が病気になっても離婚もしなかった。いつもおとなしくそばに寄り添ってくれた。感謝している。
母とは相変わらずだが、私は病気をして少しは強くなれた。病気をしたおかげで同じ病気の芸能人の本をたくさん読んだ。そしてこの病気は治ると確信した。
大丈夫です。今病気のあなたもきっと寛解しますよ。明けない夜はない。明日は必ず来る。
*それではまた!今度は千代子さんのことも書きますね。

私小説3

2015年04月23日 | 介護
2015.4.23
父との同居もそう長くは続かなかった。
母は本気で離婚を考えていた。しかし父は離婚届に判は押さなかった。娘が結婚するまで離婚出来ないの一点張りだった。
父は職も亡くなりシルバー人材センターで働くようになった。母は朝から晩まで良く働いた。私は休日には母の眼を盗んでやっとできた彼氏とデートもした。
しかし私の恋愛も長続きしなかった。そして気が付けば私もいつしか三十路を過ぎていた。お見合いをした。相手は好みのタイプではなかった。しかし、職場の隣のおばさんが私の手相を見て「あなた、30過ぎてから結婚の話がきたら断らない方がいいわよ。二度とお嫁に行けなくなるから」と、言われ、タイプでもないのに今の主人と結婚した。
私の結婚は母からの束縛から逃れるためだった。自由にならないお金と時間。私は自由を得たかった。結婚式には別居していた父も呼んだ。むろんお金のない我が家ゆえ、結婚式の費用も自分で貯金から出した。嫁入り道具も自分でそろえた。
そして私は結婚をして自由を勝ち取った。結婚の条件にただ一つ望んだことは関東圏の人と結婚することだった。理由は単純だった。千代子さんの追っかけをしたいがためだった。結婚した相手は埼玉県民だった。結婚してしばらくして言ったことは「あなたよりも千代子さんの方が好きだから」であった。主人にしてはえらい嫁をもらったものだと思っただろう。
結婚に愛などあまり関係なかった。とにかく家族から離れて自由を得たかった。その頃の主人は毎日朝早く家を出て終電で帰るような生活だった。帰って来た主人はさっさとご飯を食べてお風呂に入って寝るだけだった。夫婦の会話もろくになかった。
埼玉に移り住んだ私には友達もいなかった。友達が欲しかった。初めに市の広報を見て興味のあった手話講習会を申し込んだ。結婚をして1年後だった。そこで数人の友達も出来るようになった。すすめられて手話サークルにも通うようになった。
子供が好きだった。子供が欲しかった。たまたま結婚して2年目に主人の兄夫婦もなかなか子供に恵まれず大学病院に不妊治療に通ったと言う話を聴いたので、私たちも大学病院に不妊治療に通うようになった。丸4年通った。しかしいろいろ手を尽くしても子供には恵まれなかった。
不妊治療の途中で耳の病気のもなった。忘れもしない1月15日の成人式の朝だった。起きたら突然すごい耳鳴りに襲われた。病院を転々とした。何処へ行っても治らなかった。辛かった。手話サークルで私の耳の病気を泣きながら話した。「いい加減な気持ちで手話をやっているから罰が当たったんだ」と思った。このままろうあ者になるのではないかと不安に駆られた。
最終的に埼玉医科大学付属病院の坂田先生のところに通った。内耳ブロックにステロイドの注射を5回した。耳鳴りは少しは小さくなった。が、完全には治らなかった。
現在も耳鳴りとはお友達のように生活している。
70歳を過ぎた母は働けなくなっていた。主人と相談して母との同居が始まった。夜だった手話サークルをやめた。
母との同居は大変なものだった。やっと勝ち取った自由もまた無くなった。何もかも監視される生活が始まった。夫婦の会話も減った。母は物音ひとつで飛んでくるようになった。私たち夫婦は声を殺して静かに寝た。夫婦喧嘩はなかったが私は毎日母とは喧嘩ばかりしていた。
*と言うわけで続きはまたこの次に。